口絵・本文イラスト●ヤスダスズヒト編集●児玉拓也 ---------------------[End of Page 1]--------------------- プロローグスクール水着ありがとー 世田谷《せたがや》の長い坂道を抜けると、そこにはスクール水着がいた。 少女は両手にコンビニ袋を抱え、額に汗を浮かべながら校門へと到着した。 お昼前のグラウンドでは体操着姿の生徒たちがまとわりつくような残暑を相手に高飛びをしている。 男子は白い半そでのシャツにトレパン、女子はもちろんブルマだ。 世田谷区にある菊本《きくもと》高校では、いまや絶滅の危機に瀕《ひん》しているブルマで体育の授業が行われていた。噂《うわさ》によると、とある男性教諭の熱い支持によりブルマ存続となったらしいが、真相のほどは定かではない。そんな真相、知りたくもないし。 少女は大きな風船を膨《ふく》らますような深呼吸をしてから、グラウンドを見渡した。 砂煙《†なけむり》の中を、汗ビッショリの生徒たちが走っている。 それを見て、彼女は自分も同じように汗をかいているのだろうなと思った。 しばらく探したものの、彼女の知っている顔はそこにはなかった。となると、目的の人物は教室で授業でも受けているのだろう。 ---------------------[End of Page 2]--------------------- 聞いた話によれば、彼は窓際の席に座っているらしい。目を凝《ニ》らせば、ここから見つかるかも知れない。 「えーっと:::」 薄い唇を舌で軽く舐《な》め、少女は手で双眼鏡の形を作ると校舎の方へと視線を移した。 次々と窓際の生徒を眺めていくが、なかなかお目当ての人物が発見できないでいる。 さて、ここで彼女の服装について説明せねばなるまい。■ 少女は上から下までスクール水着であった。 いや、上からってことはない。上も下もスクール水着だ。むしろ上だけスクール水着で下がブルマとか、そういう組み合わせは有り得ない。個人的には上がセーラ服で、下がブルマというのは結構ヒットなのだが、今はそんなことは関係ない。 ま、そういう色々な組み合わせも嫌いなわけではないが、スクール水着はスクール水着なのである。 彼女はスクール水着にコンビニ袋を抱えた姿で住宅地を、そして商店街を抜け、学校へ向かう坂道を登り、この校門までやってきたのだ。 まだ幼さの残る顔は、中学生ぐらいに見える。髪の毛を三つ編みにしているところから、一見真面目《まじめ》そうな性格に思えた。しかし、真面目な中学生はこんな姿で商店街をダッシュしたりしないであろう。 ---------------------[End of Page 3]--------------------- 平日の昼間から、スクール水着姿で高校の校門前に立ち、誰《だれ》かを探している少女。なんというか、妙なシチュエーションである。 もしかして学校を抜け出して、買い物にでも行ったのだろうか?いや、それは間違いである。彼女は家から真《ま》っ直《す》ぐ、この菊本《きくもと》高校へとやって来たのだ。 彼女は本来、背中の半分ぐらいまでの長さの髪をしていたが、暑苦しいからと言って三つ編みにしてもらった。しかしそれは大きな間違いであった。 実は髪は短いよりも、長い方が涼しいのだ。彼女は首に直射日光を受け、あちーな、あちーよ、と後悔しながらサーチを続ける。 色を入れていない真っ黒な髪が、太陽に照らされて熱をホコホコと吸収する。 このままでは貧血かなにかでアヒーと倒れてしまうのではないか、と心配してしまうほど華奢《きやしや》な体だ。健康的に日焼けした体は、既《すで》に皮がめくれかけているところもある。 きっとお風呂《ふろ》に入ったらしみるだろうなi、などと考え始めた頃《ころ》、少女はようやく答えを見つけ出した。 「あ!見つけた1パパー!」 そう、彼女は自分の父親を探しにきたのである。少女の声に反応したのは、窓際の一人の女子生徒だった。 彼女は隣にいる男子生徒に、なにやらコソコソと話しかける。すると、その男子は驚い ---------------------[End of Page 4]--------------------- た顔で少女に向かって手を振《ふ》った。 男子生徒の名前は佐間太郎《さまたろう》。このスクール水着少女の「パパ」である。 その姿が「よくここまで来れたねi!いい子だねー!早くこっちにおいでi!」というふうに少女には見えた。 「うん1今から行くからね1待っててね!」 彼女はそう叫《、璽,》んでからさらに大きく手を振ると、「パパ」と呼ばれた佐間太郎のところへ向かう準備をした。 少女は地面に置いていたコンビニ袋を抱え、そのまま校庭の中央を突っ切る形で校舎へと走る。教室を見れば、さらに激しく男子が手を振っていた。 早くおいで、早くパパの胸へ飛び込んでおいでー1そしてパパに元気な顔を見せておくれー。彼女には、彼がそう言ってるようにしか思えなかった。 数分後には、授業中であるはずの教室のドアが大きな音を立てて開き、さっきの水着姿の少女が笑顔で叫んでいた。 「はい、パパ!お弁当持ってきたよ!」 突然現れた少女に、クラスメイト全員が言葉を失う。 教壇に立っていた教師も、チョークを黒板にくっつけたまま静止した。 パパ?ここは高校だぞ?あの女の子、中学生だろ?どうなってんだよ?しかも ---------------------[End of Page 5]--------------------- なんで水着?それはそれで嬉《うれ》しいけどな。かわいいし。でも、なんで? 佐間太郎は、クラスメイトの考えていることが手に取《レー》るようにわかった。だからこそ、その場から逃げ出したかった。しかし、少女はつかつかと彼に近寄ると、笑顔でコンビニ袋を押し付ける。 「はいっ。今日ね、頑張って愛《あい》も作ったんだよ。だから残さず食べてね。あ、ちゃんとママのぶんもあるから心配しないでね」 ママP”またしてもクラスメイトの表情が凍りついた。 生徒の視線は、佐間太郎の隣に座っている女子生徒、テンコへと集中する。 なぜなら、少女はコンビニ袋から取り出したランチボックスを彼女へと渡したからだ。 そんなことをされては、「いや、あたしじゃないんで」という言い訳など通用しない。 テンコは引《ひ》きつった笑顔でそれを受け取り、「ありがと」と小さく言った。 「うん!頑張ったからね1あれ、パパ、どうしたの?ご褒美《ほうび》のチューは?」 少女は両手を後ろに回し、モジモジとキスをねだり始めた。 佐間太郎は、娘の育て方に問題があったことを反省する。ああ、やっぱり自分に父親なんて無理だな。ちくしょう。 「ねえパパ、早くう〜」 屈託《くつたく》のない笑顔を浮かべ、彼女は瞳《ひとみ》を閉じた。 ---------------------[End of Page 6]--------------------- その姿に、生徒はおろか教師までが注目する。 「わ、わかった……。チューするから、帰れよ?」 「うん!」 佐間太郎《さまたろう》は少女の頬《ほお》に軽く唇を重ねた。彼女は嬉《うれ》しそうに「えへへ」と笑うと、元気良く片手を挙げる。 「それじゃ、お勉強頑張ってね!」 そして、入ってきた時と同じように大きな音を立てて教室から出ていった。 少女が去った後も、教室の沈黙は続いていた。 クラスメイトの視線は全《すベ》て、佐間太郎とテンコに注がれている。 彼は平静を装いつつコンビニ袋をカバンの中にしまい、コホンと咳払《せきばら》いをして窓の外を見た。水着姿でグラウンドを突っ切って走る愛娘《まなむ†め》の姿。そして、真っ青な空を横切る白いライン。思わず彼は眩《つぶや》く。 「あ、飛行機雲だ」 その瞬間、友人の一人がドロップキックを佐間太郎に浴びせた。 「あ、飛行機雲だ、じゃねえだろー!なんだあれ1羨《うらや》ましいそ11」 それを引《ひ》き金に、クラスは騒然となった。男子は佐間太郎の意味不明な境遇に嫉妬《しつと》し、とりあえず殴っておけとばかりに詰め寄る。女子は「高校生で父親なんて1まだ早い ---------------------[End of Page 7]--------------------- わ!」と金切り声を上げ、教師はそれを落ち着かせようと、黒板に「静粛《せいしゆく》に!」と太い文字でゴリゴリと書き殴った。 一瞬で大混乱となった教室を見ながら、佐間太郎の横にいた女子は眩いた。 「なんじゃこりゃ……」 まさに、その通りである。 このなんじゃこりゃな状況を読者の皆様に理解して頂くには、少々時間を遡《さかのほ》らなくてはならない。もし遡ったとしても、ひょっとしたら理解できないかも知れないのだが。 彼女は、いくら説明しても納得がいかないほど、なんじゃこりゃな女の子なのである。 しかし、いくらなんじゃこりゃでも説明をしなくては話にならない。 それでは、皆様に理解して頂くために時間を遡ろうと思う。 あれはいつのことだろう。 そう、それは確か、数日前のことである……。 ---------------------[End of Page 8]--------------------- 一章あの娘《ニ》ってば変わったわよね 神山佐間太郎《かみやまさまたろう》は、神様の息子である。 夏休みも終わった九月の初旬。世田谷《せたがや》にある私立菊本《きくもと》学園の教室。 一年生の教室の窓側の席。多くの高校の席順がそうであるように、そこには一人の男子と一人の女子が並んで座っていた。 窓際にいるのは女子生徒。短い髪の毛を寝癖《ねぐせ》のように跳ねさせた、気の強そうな女の子だ。菊本高校特有の少しタイトな制服に身を包み、栗色《くりいろひ》の瞳《とみ》を黒板に向けている。授業が退屈なのか、時おり髪の毛についたアクセサリーを指先でツンツンとつっついていた。 金属とラバーのプレートでできたアクセサリ:には、AWAという文字が刻んである。 ADVANTAGEWETAFROSTUD10(略してAWA)は渋谷《しぶやは》や原宿《らじゆく》辺りで、十代の女の子に人気のファッションブランドらしい。 彼女は美佐《みさ》(美佐については後で嫌というほど知ることになるだろうから、ここでは説明しない)からそれをもらい何気なくつけていたが、実はクラスメイトからは「あら、あんな激レアアイテム、どこで手に入れたのかしら」と羨望《せんばう》の眼差《まなざ》しで見られているのであ ---------------------[End of Page 9]--------------------- った。 ちなみに、美佐曰《いわ》く「男に貰《もら》ったけど、いらないからあんたにあげる」だそうだ。 世の中の男性諸君よ、女の子に貢物《みつぎもの》するぐらいだったら自分のためにガンプラかミニ四駆でも買おう。その方がずっと素敵だ。 そんなテンコ(どんなテンコなのだろう)の隣にいる男子生徒は、机に顔を突っ伏して眠っている。 特徴のある女子の制服とは対照的に、スタンダードなシャツとパンツという男子制服。 女子の制服だけ妙に力が入っているのは、決して校長の趣味ではないと信じたい。 彼は、床屋さんでとくに主張もなく「すみません、適当に」と言って切ってもらったような髪の毛をボリボリとかきながら、寝言の定番である「もう食べられないよお〜……」 というセリフを小さな声で咳《つぶや》いていた。 窓の外では、季節から取《レ一》り残されたようにセミが大きな声で鳴いている。もう夏は終わったというのに、今年の残暑は尋常ではない。大きく開け放たれた窓の上では、さざ波を思わせる動きでカーテンが揺れている。 元は真っ白であっただろうカーテンは、睨みつけるような太陽の視線によってクリーム色になり、わりともう交換した方がいいですよ、という姿で生徒たちを見守っていた。 教師はハンカチーフで汗を拭《ふ》きながら、暑さへ対する反撃のような勢いでチョークを黒 ---------------------[End of Page 10]--------------------- 板に叩《たた》きつける。生徒の大半はこの気温の高さによりボンヤリとしているか、寝不足を取《と》り戻すための仮眠を取っていたが、彼にとっては気にもならないようだ。 そんな、どこにでもあるような平凡な風景。 きっと世田谷《せたがや》だけでなく、北海道《ほつかいどう》でも、沖縄《おきなわ》でも、もちろんアメリカにだってプエルトリコにだってありそうな光景。 しかしこの窓際の二人の生徒には、クラスメイトに……いや、世界中に隠している秘密があるのだった。 なにを隠そう(もうバラします)、二人は神様の息子と天使なのである。 いや、冗談ではない。冗談じゃないんです。本当なんです。 窓際の女子の名前はテンコ。彼女こそが、天使である。 いや、だから本当なんですってば。天使だからテンコって、かなり直球な名前だと思いますが、色々あってそうなったらしいですよ。ふざけてないです。本当です。 そして(コホン)、隣の席の男子の名前は神山佐間太郎《かみやまさまたろう》。 彼こそが神様の息子なのである。 ……あのね、神様の息子だからって、名前が神山佐間太郎っていうのも、ちょっとね、軽く酔っ払ってる時に考えたのかお前は、って思われるかも知れませんけれど。 はい、まさにその通りなのです。 ---------------------[End of Page 11]--------------------- 二人の名前は、佐間太郎の父親である神様が命名した。その時、彼の手にはキンキンに冷えた生ビールが握られていたのである。 「ブハー1じゃあ、佐間太郎とテンコでいーか1覚えやすいしね!」 そう彼が言ったかどうかは定かではないが(というか、確実に言ったらしい)、二人の名前は二秒ほどで決まってしまった。 母親である女神のママさんは「そ!ね!覚えやすいわねー!プハー!」と真《ま》っ直《す》ぐな笑顔で賛成したという。彼女の手にも、黄金の液体がたっぷりと入ったジョッキが持たれていたことは説明するまでもない。 こんなふうに、いい加減な名前をつけられてしまった二人だが、毎日の生活は名前のようにお気楽にはいかないらしい。そう、人生は厳しいのだ。 今もテンコは、眠り続けている佐間太郎の肩を揺らし、まどろみの中から彼を引《ひ》き摺《ず》り出そうとしている。 天使が神様の息子を起こしているのである。 きっとなにか、壮大なストーリーが始まってしまうのではないだろうか。 「ちょっと佐間太郎、起きなさいよね。あんた、まだ夏休みの宿題終わってないでしょつ・寝てる暇あったら、今でいいからやりなさいよ」 申し訳ない、全然壮大ではなかった。 ---------------------[End of Page 12]--------------------- 「ほら、佐間太郎《さまたろう》っ。佐間太郎ってば……」 しばらく体を揺らされていた佐間太郎は「優勝できないよお」「ホットドック、もう食べられないよお」「課長、いくらなんでもそれは伸ばしすぎですそ」という脈絡のない寝言を何回か発した後に、ようやく彼女の方を向いて目を開けた。 「あ……なんだよテンコ。邪魔すんなよな」 「む。邪魔とかじゃなくてさ、ほら、夏休みの宿題。やんないとダメでしょう?」 「ああ……。やるやる。帰ったらやる」 彼は面倒くさそうに答えると、そのまま目を閉じようとする。 人生最大の幸福、二度寝だ。 「こら!寝ちゃダメだってば1そんなこと言って、新学期始まってから全然やってないじゃない!」 小さな声で怒鳴りながら(難しい)、彼女はなおも佐間太郎を起こそうとする。しかし、その途中で授業の終了を告げるベルが鳴った。 「あい、今日の授業はこれまでです」 気の抜けた声で教師は言うと、挨拶《あいさつ》もせず教室から出て行ってしまった。 なし崩し的に終わった授業の後も、教室の誰《だれ》もがなかなか席から立とうとしない。 それほど今年の残暑は厳しいのだ。 ---------------------[End of Page 13]--------------------- 「終わったよ、授業……」 テンコが呆《あ8》れた調子で言うと、佐間太郎はようやく目を覚ました。二人のいる場所にだけ、窓から爽《さわ》やかな空気が吹き込んでくる。彼はその風を寝起きの顔に浴びながら、大きなアクビをした。 「あんたね、凡、もっとちゃんとマジメに授業受けなさいよ」 教科書とノートを机の上でトントンと鳴らしながらテンコが言った。しかし、佐間太郎は彼女の注意を聞く様子はまったくない。 「マジメに受けてるってば。ちょっと、一瞬だけ居眠りしただけだろ?」 「どこが一瞬なのよ。思いっきり寝言が聞こえたけど?あれのどこがマジメなの?」 言ってる内に腹が立ってきたのか、次第にテンコの声は大きくなってくる。 「なによ、「もう食べられない』って。そんな寝言ね、今どき言う人いません。しかもね、それだけならまだいいわよ。わかるわよ。でもその後の、『課長、それは伸ばしすぎですそ』ってなんなの?課長がなにかを伸ばしたの?それとも、課長の体の一部分が伸びたのPだとしたらどこが伸びたのよ!ビヨーンて1答えなさいよビヨーンー・」 「し、知らねえよそんなの。本当に言ったのかつ・俺《 れ》、課長とか言ったのか?」 「言ったわよ!ハッキリ言ったわよ!課長とか部長とか社長秘書のケメ子さんがどうのとか、もう、訳わかんない!」 ---------------------[End of Page 14]--------------------- いや、それは言ってない。しかし、佐間太郎《嘘.隔またろう》は「ケメ子さんなんて言ったかなあ……」 などと首をひねっている。もちろん、考えたところでどうにもならないのだが。 そんな二人の様子を、少し離れた場所からニヤニヤと眺めていた男子がいた。 彼は髪の毛を校則ギリギリのところまで明るく染め、教師にはわからないように小さくて透明なピアスをしていた。佐間太郎とは違い、外見を気にするタイプの生徒だ。 「おーい、お二人さん、また夫婦ゲンカ?相変わらず仲いいね」 彼はそう言いながら近づいてくると、テンコと佐間太郎を順番に見比べ、「子供ができたらどっちに似るんだろうねー」と言ってニヒヒと笑った。 「進一《しんいら》1そういうのやめてよね。あたし、佐間太郎とそんなんじゃないから1」 進一と呼ばれた男子は、テンコが立ち上がった瞬間に自分の頭を手で押さえた。きっと、彼はいつもこんなふうに二人をからかい、彼女にゲンコでも貰《もら》っているのだろう。 「まあまあ、わかってるって。二人はきょーだい。でしょ?」 彼はそう言っていやらしい顔で笑う。佐間太郎とテンコは学校では一応、兄妹《きようだい》ということになっているのだ。しかし実際は、佐間太郎が生まれた病院の前に捨てられていたのがテンコなのである。 佐間太郎の父親は彼女を拾い、自分の娘として育てることにした。 と言っても、実は全《すべ》て神様である佐間太郎の父親の計画通りのことなのであった。 ---------------------[End of Page 15]--------------------- テンコは予定通り空からカゴに乗せられ降ってきて、これまた予定通り父親に拾われた。 そんな予定通りのことだから、クラスメイトにも誰《だれ》にも「あたし、捨て子だから」とテンコは気楽に話している。 それを知っている進一は、二人の関係を「兄妹」というよりは「幼馴染《おさななじ》み」として捕らえているのだった。もちろん、他《ほか》のクラスメイトも同様の解釈をしている。 だからこそ、二人が仲良くしている姿を見ると「あらあら、オアツイことで」と冷やかしたくなってしまうのだ。 「まあまあ、そんな怒ったりしないの。んで、今日は佐間太郎にビッグニュースです1」 人差し指をピンと立て、進一は得意げに宣言した。だが、二人はまったく興味のない様子で教科書を机の中へしまっている。 「あれ?むしろ、あり?あの、俺のビッグニュース、なんで食いついてこないの?」 進一は寂《さび》しそうな顔を作って言ったが、テンコはそれに真っ向から反論する。 「あんたのニュースがビッグだった試しがないからです」 「そりゃ、テンコちゃんにとっては、ね。でも、佐間太郎にとっては、結構ナイスな情報だよな?な、そうだよな?」 佐間太郎は、過去の進一ニュースを思い出してみる。 ニュースその一。テニス部の女の子が、パンツをチラチラさせててエロい(それだけ)。 ---------------------[End of Page 16]--------------------- ニュースその二。スクール水着には、女子だけが知っている謎《なぞ》の穴があるらしい(謎は解明されないまま放置)。ニュースその三。保健の先生の胸の大きさがわかった(でも教えてくれない)。 思い返してみると、確かにどうでもいいニュースばかりだ。しかも、ほとんどが青春時代の男子にありがちな、ピンク色をしたニュースである。 佐間太郎《さまたろう》は、思わずかわいそうな子を見る目で進一《しんいち》の方を見てしまった。 「おい、佐間太郎1なんでそんな目で俺を見るんだよ。ほら、いいニュースもあっただろ?思い出してみて!リメンバーナイスニュース!」 佐間太郎は、もう十個ほどニュースをピックアップしてみたが、やっぱり自分にとって有益だったトピックスなどひとつもなかった。 とくに「犬の鼻はどうして濡《ぬ》れてるんですか?」というのは、ニュースではなくてただの質問だったなあと思い出す。 「ない」 彼はそう言うと、さっさと席を立つ。昼ゴハンを早く購買部に買いに行かないと、お目当ての品が売り切れてしまうのだ。 「待て!待てよ!待ってくださいよ1今日のニュースはマジでヤバい。ほんとに。 だから聞いていって。ね?ね?ね?」 ---------------------[End of Page 17]--------------------- 進一は妙にクネクネと体を動かしながら、佐間太郎に詰め寄る。 「う、そんな気味の悪い動きで素早く近寄ってくるな」 「なんで?ね?聞いて?ね?ねり・」 彼の動きはより一層速くなった。クネクネクネクネ。である。ものすごく不気味だ。 その余りの不気味さに、佐間太郎は彼の言うことを聞いてやることにした。 「わ、わかったよ、聞くから、聞くから」 「本当?もうお土産物屋さんで売ってる、暗いトコで光るガイコツのキーホルダーみたいな動きしなくていい?」 「いいよ、いいから。いいから」 「サンキュ。ではニュース、発表します」 佐間太郎は仕方なくイスに座り直した。テンコも、今度は彼がどんな妙なことを言い出すのか興味があったので、聞いていない振りをしつつ耳を傾ける。 「ジャンジャカポーン!あのですなあ、隣のクラスに地味い〜で、大人あ〜しくて、気の弱そお〜な女の子がいるんだけどさ」 また女子の話か……。二人は呆《あき》れた。その空気を悟った進一は、慌《あわ》てて両手を振った。 「違うの!こっからがすごいの1その女子がな……なんと……」 彼はわざとゆっくり話し、二人の興味を集めようとする。 ---------------------[End of Page 18]--------------------- しかしその作戦は、テンコが大きなアクビをして、佐間太郎《さ糞たろう》もつられてアフーとなったところから見事な大失敗に終わったことがわかる。 「くっ……。ふん、最後まで聞いて驚いて耳から汁出しても知らないからな」 「耳から汁なんて出ません」 テンコは冷たい目で進一《しんいら》を見つめた。 「!出るよ、出るさ1俺《おれ》は出るね。むしろ、出たね1もう、ペットボトルで言うと六本分?そんぐらい出たよ。汁がさ。で、この汁がまた、妙な色でねえ」 「汁の話はいいから、さっさと次を話せよ」 痺《しぴ》れを切らした佐間太郎が、そう彼を促《うなが》した。 「そうそう、そうでなくっちゃ。ようやく興味が湧いてきたみたいだな」 興味が湧いたのではなく、ただ単に汁の話を聞きたくなかっただけなのだが。 「その大人しそうな女の子がな、なんと夏休みが終わったら、超かわいくて、活発な子になってたんだよHきっと、夏休みの最中になんかあったんだよ!わー!もう、なんだこれ1すげi1ビッグニュース1」 興奮して拳《こぶし》を握り締め力説する進一に、佐間太郎は冷静に告げた。 「じゃ、俺、ゴハン買いに行くから」 「待って!待ってよ1なんでよ1興味ないのP」 ---------------------[End of Page 19]--------------------- 「ないよな、テンコ?」 「うん、ない」 「なんでi!ホワイ!むしろホワッツ1おかしいよ二人とも!」 おかしいのは彼の方であるが、さすがに二人もそこまでは言えなかった。 「おかしいのはあんたでしょ1」 あ、テンコがあっさり言った。 「まったく、毎度毎度、女の子の話ばっかりしてさ。なに考えてんだかもー」 「わーったよ!いいよ、お前らなんて知らん1俺一人で見に行くからな1」 そう言うと進一は「ばーかばーか」と繰り返しながら教室から出て行ってしまった。 二人は顔を見合わせると、大きなため息をつく。そしてテンコは自分で作ったお弁当をカバンから取《レ層》り出し、佐間太郎は昼食を買いに購買部へと出かけるのだった。 テンコはよく晴れた空を見ながら、お弁当の包みを机の上で開けた。女神であるママさんに教えてもらった、ほんのり甘めの玉子焼きが入ったお弁当だ。 ピンク色のケースからハシを取り出すと、その少し冷めた黄色を半分に割る。 普段ならそれをヒョイと口の中に入れるのだが、どうも今日は気分が冴《蒐雪》えない。正確に言えば、ここ一週間ほど、ずっとドンヨリとした気持ちでいる。 ---------------------[End of Page 20]--------------------- テンコはハシで玉子焼きをつまみながら、もう一度窓の外に目を凝《こ》らした。 そこに広がるのはさっきとなんら変わりのない風景で、それが当たり前のことだとわかっているのに、なんだか損をした気分になった。 「佐間太郎《さぼたろう》って、バカよね……」 思っていることが、つい口からこぼれてしまう。蒸し暑い陽気とは対照的に、彼女の心は冷凍庫で凍らせたペットボトルのジュースみたいにカチカチだった。 その冷たさは、いつボトルが破裂して中身が噴き出してくるかわからない、とても不安定なものだ。 「なんで、こうなっちゃったんだろう……」 天使のテンコにとって、悩みはひとつしかない。もちろんそれは、佐間太郎のことだ。 そもそも彼女は、人間界で暮らす佐間太郎の牛、理教育などを目的に生まれてきた存在である。 佐間太郎に危険がないように、立派な次期神様としてやっていけるように、テンコはそれしか考えてはいけないはずだった。 それなのに、少し前からややこしい感情が心の中で煙をあげ、いつ火を噴き出してもおかしくない状況になっている。 彼女自身、それがなんなのかうすうす感づいてはいたが、その気持ちを認めたくないの ---------------------[End of Page 21]--------------------- も事実だった。 誰《だれ》があんなやつのこと、好きになんてなるもんですか。ヤル気ないし、グータラだし、ポンチョロリンだしっ。だしっ。だしっ。で、……ポンチョロリンて、なに? テンコは自分で自分の心に突っ込みながら、二人がまだ上手《りつ玄》くやっていた時期のことを思い出す。 そんなに遠い昔の話ではない。それは、夏休みに入る前の辺りだ。 佐間太郎は子供の頃《ころ》から両親に溺愛《でゑあい》され、ワガママに育てられてしまった。 何かを欲しいと思えば、パパさんがすぐにそれを察知して用意してしまうのだ。 それはお菓子でも、ブレステでも、お金でも、女の子だってそうであった。 なにしろ父親は神様なのである。不可能なことなどなにもない。 甘やかされて育った彼は、主義主張もなく、ただ流されるままに生きてしまう高校生になっていた。 テンコはそんな佐間太郎を叱《しか》り、もっと神様候補らしく自信を持ちなさい1と毎日のように怒ったものだ。 なんとも面倒な日々であったが、彼女にとってはそのわずらわしさも楽しかった。 朝に彼を起こして、着替えを用意し、一緒に学校に通う。そんな手間のかかる生活を愛していたのかも知れない。 ---------------------[End of Page 22]--------------------- しかし、夏の始まりに起こった事件をキッカケに彼は変わってしまった。 佐間太郎《きまたろう》は、恋をしたのだ。 テンコは、佐間太郎の初恋の相手のことを思い浮かべた。 信じられないぐらい体の細い、人形のような女の子だった。人間の女の子に興味を示さなかった佐間太郎も、彼女には魅力を感じてしまった。 普段ならパパさんが佐間太郎の心の動きを察知し、すぐ「よし、じや、あの女の子と結婚するがいいさ!」とばかりに奇跡を起こしただろう。 だが、その時に奇跡は起こらなかった。 佐間太郎は、彼女に軽くあしらわれてしまったのだ。 後でわかったのだが、その時に奇跡が起こらなかったのはパパさんがグウグウと居眠りをしていたせいだった。 なるほど、そういうこともあるだろう。グッスリと眠っていて、彼の心の動きを見逃してしまうことがあってもおかしくはない。 しかし、テンコにはそれが心の隅に引《ひ》っかかってしょうがなかった。 いつもならすぐに気がつくはずのパパさんが、どうしてあの時だけ佐間太郎の気持ちを汲《く》み取《と》れなかったのだろうか。 たまには見逃すことだってあるだろう。そうは思っていても、今まではそんなことなか ---------------------[End of Page 23]--------------------- ったのに、なぜあの時、あの瞬間だけ、パパさんは気づくことができなかったのだろうかと不思議に思った。 まあ、その後にきちんと奇跡を起こし、パパさんは事態をややこしくさせたのだが。 それにしても、一番大事な最初の時に、それは起こらなかったのだ。 彼女にとって、その偶然は佐間太郎に自発的な初恋を促《うなが》す運命のような気がしていた。 神様と一緒に暮らしているというのに、自分は天使だというのに、運命という言葉を使うのは少し気がひける。だが、どうしてもテンコにとって、それは臆《ふ》に落ちない点であった.「ごちそうさまです」 彼女は玉子焼きを一口食べただけのランチポックスにブタをした。 佐間太郎が購買部へ行くと、進一《しんいち》が焼きそばパンを持ってニヤニヤ立っていた。 彼には、その笑顔の意味がなんとなくわかった。それでも一応とばかりに、購買部のおばちゃんに向かって注文を告げる。 「あの、焼きそばパン、まだありますか?」 おばちゃんはすまなそうな顔をすると「ごめんね、今日は売り切れだよ」とだけ言って他《ほか》のメニューを勧めた。 佐間太郎は軽く頭を下げると、進一の方を不服そうな表情で睨《にら》みつける。 ---------------------[End of Page 24]--------------------- 「どしたの佐間太郎《さまたろう》ちゃん、今までは運がよかったのに、最近はとんとダメだねえ」 「……うるせえ」 進一《しんいち》はからかうように彼に言った。今までの佐間太郎は、学校でもラッキーボーイとして有名だった。授業中寝てても文句は言われないし、宿題を忘れた時に限って自習になるし、席は涼しい窓際に当たるし、しかも隣は幼馴染《おさななじ》みの(しかも、とびきりカワイイ!)女の子だし、と言った具合である。 ところが最近、彼の運の良さは並程度になってしまった。 友人である進一はすぐにその変化に気づいたが、佐間太郎は「そうか?」とトボけるばかりだ。 もちろん彼自身、その原因はわかっていた。 今までずっと自分のことを見守っていて、ことあるごとに奇跡を起こしてくれていたパパさんが、天国へ出張中だからである。 神様も色々と忙しいらしく、ずっと彼の面倒を見てやることはできなくなったらしい。 ただ、たぶんそれはパパさんの言い訳なのだと佐間太郎は思っている。 パパさんが天国に出張すると急に言い出したのは、夏にあった騒動の後だったからだ。 あの一連の出来事をキッカケに、パパさんは佐間太郎に極端な甘やかしをすることをやめた。それは、彼が次期神様としての自覚を持ったと判断したからではないだろうか。 ---------------------[End of Page 25]--------------------- 佐間太郎はそう考えていたが、本当のところは天国にいるパパさんしか知らない。 「ところでお前さ、最近テンコちゃんに冷たくないか?」 「はP“な、なんでだよ、そんなことねえよ1」 物思いにふけっていた彼を、不意に進一が現実に引《ひ》き戻した。しかもその=言は、佐間太郎が自分でも意識的にしていることだったので、妙に慌《あわ》ててしまう。 「なーに慌ててんだよ、やっぱな。やっぱそうなんだな」 テンコが悩んでいたのは、あの時期をキッカケに、佐間太郎が彼女に対して冷たくなったからでもある。 周囲から見れば気づかないほどの違いだが、この年になるまでずっと一緒にいた仲なのだ。彼女は佐間太郎のぎこちない態度に気づき、すぐに不満を漏《も》らした。 しかし、彼がそれを改めることはなかった。夏休み中続いた冷たい態度が、テンコを不安にさせ、柔らかくて温かい心を凍らせてしまったのである。 「お前あれか、テンコちゃんの他《ほか》に好きな子でもできたのか?」 「ちげーよ!そんなんじゃないっ。つうか、テンコのことなんて好きじゃねえし」 佐間太郎は昼食をあきらめ、屋上で昼寝でもしようと廊下を歩き出す。進一は焼きソバパンを握り締めながら、芸能リポーターのような調子で彼に付きまとった。 「えー、それで、新しい恋の相手はどなたですかな?」 ---------------------[End of Page 26]--------------------- 「だから、そんなんじゃないって」 「じゃあ、潔白なら答えてください。隣のクラスのあの子か?ほら、夏休み終わってガラッと変わったっていうさ」 「違うってば。そんなやつ、顔も見たことない」 「なんでー?あ!わかった!あれだろ1保健の先生だろP大人の魅力か?カー、イロッペ!」 「そうじゃないってば」 「でもさ佐間太郎《さまたろう》ちゃん、興味ない?クラスメイトにも『あの娘《こ》ってば変わったわよねー』って言われてる女の子」 「ない」 「じゃ、この焼きそばパンに興味は?」 「……ある」 「よし、じゃあ俺《}’》と秘密スポット探検に一緒に行くんなら、これ、やる」 佐間太郎のお腹は、まるで返事をするようにギュルルルルと鳴った。 「にひひひ。決まり、だな」 「へへへ。ピンク秘密スポット、結構興味あるだろ?」 ---------------------[End of Page 27]--------------------- 「おい、ピンクってなんだよ!そんな話聞いてないそ!それに、興味なんてねえからな、これのためだからな」 佐間太郎は焼きそばパンの最後の一口を頬張《ほおば》り、包み紙をポケットの中に突っ込んだ。 進一《しんいち》はクスクスと笑いながら、秘密スポットとやらに佐間太郎を案内する。 校舎裏をこっそりと抜けると、一本だけ背の高い木が生えている場所へと出た。 「ほら。この木に登って覗《のぞ》けば二階にある女子の更衣室が丸見え」 「丸見えって1それ、犯罪じゃないかよ!」 「大丈夫、大丈夫。一瞬だから、一瞬」 指でOKマークを作りながら、進一は普段は見せない俊敏《しゆんびん》さで木の上の方までスルスルと登っていった。体育の時など、ヤル気なくダラダラと走っている彼からは想像もできない動きだ。 人間、好きなことに夢中になると真の力が発揮されます。いやあ、一生懸命っていいですよね、人に迷惑さえかけなければ。 「おい、佐間太郎、カモングッ、カモングッ」 最後のグがわからないが、佐間太郎も進一の後に続いて木を登った。彼だって青春まっさかりの少年である。そういうことに興味がないわけではない。 もちろん心の中では「これは人間をより知るための勉強なのである」という言い訳を繰 ---------------------[End of Page 28]--------------------- り返しながら。 進一《しんいじノ》よりも少し手間取《ど》ったが、なんとか彼のいる場所までたどり着いた。 普段に比べて格段に高い視界は、新鮮で面白かった。地上からたった数メートル離れるだけなのに、こうも見える景色が変わってくるのか。これが神様で、雲の上から人間を見るとしたらどういう気分なのだろうか。よし、今度オヤジに聞いてみよう。 「でもさ、進一」 「なんだよ」 足場を確かめながら、佐間太郎《さまたろう》は彼の顔をマジマジと見た。 「ここから丸見えってことは、向こうからも丸見えってことなんじゃないか?」 「あ」 進一は佐間太郎の目を真《ま》っ直《す》ぐ見つめながら、なにかを考えているようだった。 しばらくすると更衣室の窓の方に目をやり、なにごともなかったかのように言う。 「さあ、ここが天国への入り口だ」 「いやだから!天国の入り口でも、天国からの出口でもどつちでもいいけどよ1そうじゃなくて。向こうから見えるんじゃないか、って話は?」 「見えたっていいじゃねえか1見せ合いっこだうがよ!」 「それ、バレてんじゃねえか1覗《のぞ》いてんの1」 ---------------------[End of Page 29]--------------------- 「うっせ、あんま大声出すな!見つかるだろ1」 「だからもう見つかってんだって1」 その時、閉まっていた窓が大きく開き、カーテンが揺れた。 「…………」 思わず黙《だま》ってしまう二人。どうやら、昼休み後の体育の授業に備えた女子が、着替えに来たらしい。 「この後が体育って、調べたのか?」 「当たり前だろ。そんなの調査済みさ。フフ」 見つからないように体を小さく丸め、目を細める。太陽の光が窓から差し込み、更衣室の奥までハッキリと見えた。その奥で、早速一人の女子が制服を脱ぐとブルマへと着替え始めた。佐間太郎はその光景を見て、思わず声を上げる。 「だっ1なんだあれは!女子というのは、あんなにも無防備な生物なのですか!」 進一は得意げに鼻を鳴らすと、彼をバカにするような調子で言った。 「女子しかいないからな。気にしないんだよ」 「な、なるほど。同性同士だとああも大胆に……」 ロッカーの扉を開け、丁寧《ていねい》に畳んだ制服を押し込むと、彼女は下着だけの姿でストレッチを始めた。それは二人に対するアピールにさえ思えてしまうほど、大胆である。 ---------------------[End of Page 30]--------------------- 「ちっ。下着はいいからブルマ早くはけよ……」 「お!佐間太郎《さまたろう》いいね!出てきたね、なんかこう、ドス黒いものが!」 「出てきてねえよそんなの!ふざけんな!」 ブルマ好きを指摘されてしまった佐間太郎は、頬《ー3お》を赤らめながらも女体観察を続ける。 なるほど、女子の体はこうなっているのか。とても勉強になります。これからの人生、きっと役に立つことでしょう。 『佐間太郎1。ね、どこにいんの?』 彼の目の前に、不意にテンコの顔が現れた。木に登っている佐間太郎の目の前、つまりなにもない空中にである。 「わああああああ!」 「バカっ!黙《だま》れっ1」 思わず悲鳴を上げてしまった彼の口を、進一《しんいち》が咄嵯《とつさ》に押さえる。二人は女子にバレてないか、息を飲んで更衣室に注目した。 下着姿の少女は不審気《ふしんげ》に窓の外を何度か見たが、眩《まふ》しそうに目を細めるとまたストレッチへと戻った。 「ふう、ここが逆光になっててよかったぜ……」 進一はゆっくりと佐間太郎の口から手を離した。 ---------------------[End of Page 31]--------------------- そう、この秘密スポットは、昼休みの直後だけ逆光となるのだ。彼はそれも計算済みの上で、この時間を選んで佐間太郎《さまたろう》をご招待したのだった。 「いきなり大声出すんじゃねえつの、見つかったら覗《のぞ》き扱いだぞ?」 見つからなくても覗きには変わりないのだが、佐間太郎は「すまん」とだけ眩《つぶや》く。 そして、ストレッチ少女を気にしながらも、心を集中して目の前の空間を見た。 空中に浮かんでいるのは、ホログラムのようなテンコの顔である。 これは、神様家族だけが持っている特別な力だ。 神山《かみやま》家のみなさんは、テレパシーのような能力を使うことができる。 これを使うと声だけでなく、自分のイメージを相手に伝えることができるのだ。どこにいても使うことができるテレビ電話のようなものだと思って頂きたい。テンコは昼食を買いに行ったきり姿を消した佐間太郎を心配し、こうしてイメージを送ってきたのだ。 『なに、ずいぶん慌《あわ》ててるみたいだけど、どこにいんの?外つ・』 もちろんテンコの声は進一《しんいち》には聞こえない。佐間太郎の心の中にだけ直接響いている。 彼は自分の目だけをアップにして、それをテンコにイメージとして送った。風景まで一緒に届いてしまうと、自分が妙なところにいるのがバレてしまうからだ。 そして、平静を装いつつ、彼女に向かって声を送る。 「なんでもないです。チョ:フトゥー』 ---------------------[End of Page 32]--------------------- テンコは、すぐに彼の異変に気づく。声があきらかに震《ゐる》えているのだ。 「え?なにそれ?なんなの?なんでもないわけないでしょ?超普通なんて普段言わないし。なにか悪さしてるの?進一でしょ?あいつでしょ?あ1今、一瞬空が見えたわよ!どこにいんの1……どうせ変なことしてるんでしょ1』 思わず視線が、横でヨダレを垂《た》らしながらウヒウヒ言っている進一の方を向いてしまった。テンコはそれを見逃さずに、素早く突っ込みを入れる。 『横でしょ。横にいるんでしょ。ねえ、進一が横にいるんでしょ1出しなさい!』 出しなさいと言われても、電話ではないのだから代わることはできない。 「うるせえ。電話じゃねんだから、そんなことできません。それに今はとても忙しいんです、僕は。だから後にして」 『ふーん、忙しいんだ……。なにしてるんだかあ』 胡散臭《うさんくさ》そうに目を細めるテンコ。全《ずべ》てを見透かされているのは確実だ。ここはひとまず、彼女からのイメージを遮断《しやだん》することにした。まず空中に穴を想像する。そして、そこにテンコが吸い込まれていく様子を思い描く。 『じゃ、えーと、電波悪いから、ここ』 「なにそれ!電話じゃないんだからね!こら、佐間太郎!返事しなさいっ1で!あんた、なにしてんの!』 ---------------------[End of Page 33]--------------------- 最初はゆっくりと、次第に強烈な吸引力でテンコの顔がその穴に吸い込まれていく。まるで、洗面台の排水口に渦《うず》を巻きながら流れていく水のようだ。 『コラ1消さないの1消したらパパさんに言いつけるからね!』 『むぐぐぐぐぐぐぐ』 佐間太郎《さまたろう》はテンコからの強烈なイメージを、力でねじ伏せるように想像力を働かせる。 『コラー1ダメだって言ってるでしょー1』 オデコまで穴に吸い込まれていたテンコだったが、最後の力を振《ふ》り絞って腕をニョキっと穴から出した。まるでホラー映画のワンシーンである。彼女の指先は、佐間太郎を掴《つか》もうとアグアグ激しく動いている。 もちろん全《すべ》てイメージ上のことなので、実際には触れることすらできない。その動作は、全てテンコの感情を表しているに過ぎない。の、だ、が、かなり怖い。 本当に手で掴まれ、そのまま木から引《ひ》き摺《ず》り下ろされそうな迫力がある。 「さまたろおおおおおお1』 テンコは彼の頭の中で絶叫すると、そのまま穴の中に吸い込まれて消えてしまった。 穴は口を閉じ、そこは今までとなにひとつ変わらないただの空間に戻った。 「よしっ」 思わず小さくガッツポーズを取《と》る佐間太郎。いや、このガッツポーズはテンコに覗《のぞ》きを ---------------------[End of Page 34]--------------------- 邪魔されなくてよかったーという意味ではない、精神力と精神力の戦いに勝ったという喜びなのである。神様候補として、またひとつ成長したというね、そういうの。 「よしっ、じゃなくてよ。ほら、あの娘《こ》だよ、あの娘」 一人で顔を真っ赤にする佐間太郎を、もの珍しそうな顔で眺めていた進一《しんいち》だったが、更衣室の中にお目当ての娘が現れたことにより、すぐ視線を移した。 「あの娘が夏休みが終わって急にかわいくなった娘。なにかあったんだろうな。なんでも、前までは相当暗かったらしいからな」 「どれどれ?」 佐間太郎は目を凝《こ》らして進一オススメの女の子を見ようとする。 『覗きでもしてんじゃないの?』 が、その瞬間、耳元でテンコの声がボソッと聞こえた。佐間太郎の全身から血の気が引く。振り返ると、自分の背後にテンコの恨めしそうな顔が浮かんでいた。 『この変態』 追い討ちをかけるように眩《つふや》く彼女。 「うは……」 木を掴んでいた手から力が抜け、彼はバランスを大きく崩した。 「おい!佐間太郎、落ちんじゃねえよ!」 ---------------------[End of Page 35]--------------------- 進一《しんいち》は佐間太郎《さまたろう》が木から落ちそうになっているのに気づき、咄嵯《とつさ》に両手を大きく空に向かって挙げた。もちろん、落ちそうになった彼が自分の腕を掴《つか》んでこないようにである。 巻き添えを食って二人で地面に落ちるよりも、一人で落ちてくれた方が被害が少なくていい。それに、もし自分まで一緒に落ちたら、誰《だれ》が彼を保健室へ連れていくのだろうか。 そんな彼の優しさ(?)に気づかない佐間太郎は、空中で手をバタバタと動かした末に、進一のズボンをガッシリと、それはもう数十年ぶりに再会した親友の握手のようにガッシリと、強い力で掴んだ。 「……まじかよ」 それが進一の最後の言葉だった。 二人は地面に向かってスローモーションで落ちていく。 落ちている途中、更衣室の窓の向こうに女の子の顔が見えた。 彼女と佐間太郎はハッキリと目が合ったものの、落下スピードの速さにより顔をしっかりと確認することはできなかった。まるでプレた写真のように、少女の顔がピンボケで流れていく。もしかして、あれが進一の言っていた「夏休みが終わったら急にかわいくなった女子」なのだろうか。 佐間太郎は空中を落下しながら、そんなことをボンヤリと考えていた。 二人は季節を先取《ど》りした枯れ葉のような優雅な落ち方、では全然なく、テレビのコメデ ---------------------[End of Page 36]--------------------- イ番組のようにハデな落下で地面へと向かった。 ヒュルルルルドスンガスンバコーン。とね。 テンコは教室で、なにかの音を聞いたような気がした。それは校舎の裏側から響いた、コスン、という小さな音だった。教室にまで聞こえてくるのだから、近くにいたらかなり大きな音がしたのではないだろうか。 爆発音には聞こえなかったが、なにか起こったのかも知れない。佐間太郎の顔が頭の中に浮かんだ。 「佐間太郎!』 彼にイメージを送るが、返事が返ってくることはない。もしかして、彼の身になにかあったのだろうか。もしかしてもしかして、木の上から女子更衣室を覗《のぞ》いていて、そのままうっかり落ちたのかも知れない。いや、さすがの彼もそんなアホなことはしないだろう。 っていうか、してるんですけどね。 テンコは上履《うわば》きのまま、音の聞こえた校舎裏まで走った。本来ならば次の体育の授業のために体操着に着替えなくてはならなかったが、今はそんな時ではない。もしも彼の身になにかあったら、それは監視役であるテンコの責任になってしまうのだ。 「佐間太郎!佐間太郎!」 ---------------------[End of Page 37]--------------------- 自分が彼の見守り役だからという責任感からなのか、それとも純粋に彼のことが心配なのか彼女にはわからなかった。 ただ、佐間太郎《さまたろう》になにかあったらすごく悲しい、という思いだけで走り続けた。 校舎の裏に到着すると、目をグルグルにして倒れている二人の男子生徒がいた。 もちろん、佐間太郎と進一《しんいら》である。二人はなぜか、抱き合っているように見えた。 「ちょっと……あんたたち、なにしてんの?」 佐間太郎はゆっくりと目を覚ましたが、事態をすぐに把握できないようだった。何度か左右を確かめ、上下を確かめ、そして自分が生きているかどうかを確かめ、テンコってば怒ってるのかなーどうなのかなーと確かめた。 もちろんテンコは怒っていた。目の前には高い木が。その先には女子更衣室の窓があるのだ。なにをしていたかなど、聞かなくても明白である。 「で、なにしてんの?」 問い詰めるように彼女は言った。それは本当に天使なのかしらんと思うぐらいの威圧感に満ちていた。 「え、えーと……スケッチです」 「スケッチね。ふーん。秋も近いしね。芸術ってことね」 まったく信用されていない。佐間太郎は、もっとマシな言い訳をしなければ、と頭をフ ---------------------[End of Page 38]--------------------- ル回転させる。しかし、彼の上に覆いかぶさるようにして倒れていた進一が、苦しそうに発した言葉により、そんな努力も無駄になった。 「女体スケッチです……」 プシュー。その瞬間、テンコの頭から真っ白な蒸気が噴射された。ここで誤解してはいけないのだが、天使は頭から湯気を出す生き物ではない。これはテンコだけのオリジナルの要素である。彼女は、子供の時にあった出来事以来、激しく感情が乱れると頭から真っ白な煙が出るようになってしまったのである。 さきほど出た煙は、彼女の頭の少し上で、ドーナツのような形になって消えていった。 それを見た佐間太郎は「あ、怒ってる。絶対俺、なんかされる」と直感した。 「ウフ!」 そしてテンコは笑った。飛び切りの笑顔だった。だからこそ、逆に怖かった。 彼女はツカツカと近寄ってくると、倒れている佐間太郎のオデコを、靴の一番痛いとこ(たぶん、つま先)を使って蹴り上げた。 「びみゃー1!!1!」 その悲鳴を聞いて、何人かの女子生徒が更衣室の窓から顔を出した。 倒れている二人の男子とテンコを見て、彼女たちは「だいじょーぶ?なんかあったのー?」と声をかける。 ---------------------[End of Page 39]--------------------- 「なんでもなーい、ちょっとツチノコ見つけたから生け捕っただけー」 女子の問いかけに対し、テンコは笑顔で答えて手を振《ふ》った。 「はあ……二人とも保健室、連れていかなきゃ……」 それにしても、更衣室にいた女子生徒は二人が落ちた時の音に気づかなかったのだろうか?もしかしたら、それほど大きな音はしなかったのかも知れない。 あの妙な音は、テンコの心にだけ届いたものなのだろうか。さすが、天使である。 でも、神様の息子のデコを蹴り上げる天使ってのは、正直どうかと思う。 佐間太郎《さまたろう》のケガは、幸い軽症で済んだ。足を軽くひねっただけで、シップを一枚貼《ま》ってもらって治療は終わったのだ(どちらかと言うと、テンコに蹴られたオデコの方が消毒やらなにやらで面倒だった)。 しかし、進一《しんいち》は保健室でギャーギャーと喚《わめ》き、丸めたティッシュをテンコに口の中に詰め込まれてしまった。 保健の先生は彼の足を何度か触り「ああ、折れてるわね、これ」と冷静に言った。 保健室までは佐間太郎が背負って運んだものの(足が痛いと文句を言ったが、テンコの「覗《のぞ》き」という=言になにも言えなくなってしまった)、そこからは救急車で病院へと運ばれて行ってしまった。 ---------------------[End of Page 40]--------------------- 午後の授業は進一抜きで行われ、佐間太郎は常に「この変態」というテンコの心の声攻撃を受けることになる。 ようやく授業は終わったが、下校中もその攻撃は止《《》むことがなかった。 その上、心の声ではなく実際に言われるのだからたまらない。 「まったく、覗きなんてするからでしょ!あんたね、自分の立場わかってるの?」 まったくもって彼女の言う通りなのだが、言われっぱなしでは神様の息子としての威厳がなくなってしまう。彼は必死に言い訳を考え、なんとか反論する。 「してないって!……俺《おれ》はただ、空と自分の距離を縮めたかっただけさ」 遠い目をして空を見上げる佐間太郎。そんな彼を哀れんだ目で見つめるテンコ。 「バカ?」 「バカじゃなくてー─本当だってば1これだから天使って1エンジェルってばー・」 「どう考えても嘘《うそ》じゃない!よく言うわよ本当に」 などと言い合ってる内に神山《かみやま》家に到着する。築二五年の一戸建て。典型的に平凡な家である。本当にここが神様一家が住む家なのかと疑ってしまうが、本当なのだから仕方ない。 佐間太郎は「神山」と書いてある表札の横のインタ:ホンを押し、門を抜けて玄関まで向かう。これが大邸宅《だいていたく》だったら、門から玄関までが数分かかるなんてこともあるだろう。 しかし彼の家は、たった三歩ほどで玄関に到着する。まったくもってこぢんまりとした ---------------------[End of Page 41]--------------------- 作りなのである。 中から鍵《かぎ》が開くのを黙《だま》って待っている佐間太郎《さまたろう》の背中を、テンコも同じようにして黙って見ていた。 まったく、覗《のぞ》きをして木から落ちる神様候補なんてどこにいるだろうか。家の中に入ったら、ママさんに叱《しか》ってもらわなくてはならない。普段は温和なママさんも、息子がそんな犯罪まがいのことをしたなんて聞いたらヒステリックに怒るかも知れない。 一応、例のテレパシーを使ってママさんには一部始終を報告してあるのだ。 もし彼女がキツく言い過ぎたら、その時はちゃんとフォローしなくては。 「はあ、天使も楽じゃないわよ……」 玄関のドアがゆっくり開くと、そこにはこの家の住人である三人の女性が並んで立っていた。母親のママさんこと神山《かみやま》ビーナス、姉の美佐《みさ》、そして妹のメメである。 テンコは、その三人の姿を見た瞬間に言葉をなくした。あまりのことに、全身から力が抜け、その場に倒れ込んでしまいそうになった。 「せーのっ」 ママさんが小さな声で言った。すると、その合図に合わせて三人が声を揃《そろ》える。 「佐間太郎ちゃんおだいじにi!」 三人は、なぜか白衣を着ていた。看護婦さんのコスプレである。 ---------------------[End of Page 42]--------------------- 想像して欲しい。玄関を開けた瞬間、三人の看護婦が立っている光景を。 看護婦の中の一人、ママさんは両手を広げた。そして、そのままのポーズでダッシュしたかと思うと、佐間太郎を胸の中に抱きしめた。 「わーん1佐間太郎ちゃん、お怪我《けが》なかった?大丈夫だった?木から落ちたんだって?あるある、そういうことってあるわよね、神も木から落ちるって言葉、あるものね1でもよかった、無事でよかった1無事が一番1無事こそ一番!」 そう言いながら、自らの豊満な胸を佐間太郎の顔にグイグイと押し付ける。ママさんの胸は、ボタンで留められた白衣からこぼれおちそうになっていた。なにせ彼女の胸は、Aから数えるよりもZから数えた方が早いのではないかと思うほどに大きい。 そんな二つのポワポワに顔をグニグニされてしまうのだ。嬉《うれ》しいとかどうとかの前に、正常に呼吸ができないという事態に陥る。 彼はヒイヒイ言いながら手を動かした。ギブ、ギブ、の合図だ。 「なになに1どうしたの佐間太郎ちゃん1そんなにママさんのおっぱいが好きなのPわかったわよー、眠りなさい、ママさんの胸でグウグウなさい!ね!ほら!ね!でも、ママさんちょっと恥ずかしいなー!だけど、かわいい甘えん坊さんのためなら、我慢しちゃうからね!」 テンコは言葉を発しようとしても、声が出なかった。彼女の頭の中は、こんな言葉で埋 ---------------------[End of Page 43]--------------------- め尽くされていたからだ。 ……アホだ。アホ過ぎる。 心配するのはわかるが、もっとましな心配の仕方はないのだろうか。 それに、三人とも白衣の下に何も着ていないようだった。普通の白衣というのは、なんか着てから羽織るもんなんじゃないのか。なんで全裸の上に白衣なんだ。おかしいでしょ。 裸であると思った理由は、三人の白衣の裾《すそ》から伸びている足が完全に素足だったからだ。 しかも、その白衣の丈は普通よりも随分と短い。ミニ白衣である。テンコはテレビドラマに出てきた、急に男の人の家に泊まることになった女性のことを思い出した。 「ね、凡、着る物ないからYシャツ着ていい?」 そう言って、女の人が裸の上にYシャツだけを羽織った姿でコーヒーなんぞを入れていたのだ。まさに、その白衣バージョンが目の前にいる三人である。 「なーんだ、佐間太郎《さまたろう》もいい年して子供なんだーね!」 その様子をニコニコと見守っているのが、姉の美佐《みさ》である。肩まで伸びた髪を手でパッと払うと、まるで酒に酔った中年男性のようにガハハハハと豪快に笑った。 黙《だま》っていればモデルかなにかと間違えてしまうほど美しい美貌《ぴぼう》も、オヤジ的な行動のために台無しになってしまう。もちろんいつもオヤジなわけではない。 美佐は佐間太郎と同じ学校に通う一年上の先輩だが、そこでの彼女は「無口でクールな ---------------------[End of Page 44]--------------------- 美人、神山《かみや敦》さん」で通っている。 佐間太郎は彼女に、家でもああいう性格であって欲しいと常々思っていた。 しかし、実際のところ、彼女は帰宅した瞬間に制服を脱ぎ散らかしながら歩き、台所に到着する頃《ころ》には下着姿になっているのだ。 そして冷蔵庫をバカンと開けると「あぢー」と言いながらその冷気で涼む。最後に彼女は下着姿のままでミルクのパックを取《レ 》り出し、コップを使わず直接グビグビグビ飲んだかと思えば「カー1やっぱ夏は牛乳だね!」と叫《さけ》ぶのであった。 そこに妹のメメがいたとすると「じゃあ秋は?」と冷静に突っ込まれる。しかし美佐は「コーヒー牛乳!」と力強く即答する。なぜそんなこと断言しなくてはならないのか。 「じゃあ冬は?」 「フルーツ牛乳1」 「春は?」 「牛乳再び1」 「ふーん」 「じゃ、制服しまっといて」 「うん」 すると、小学五年生である妹のメメは、彼女が廊下に脱ぎ散らかした制服を拾う。 ---------------------[End of Page 45]--------------------- 家に帰ってきてリラックスしているのか、学校での姿が嘘《うそ》っぱちなのかわからないが、どつちにしろ高校生男子である佐間太郎《噌.一またろう》には目の毒だ。 「どう佐間太郎、おっぱい、嬉《うれ》しいつ・ウレスィー?」 いまだにママさんの胸の谷間で遭難《そうなん》している彼に向かって、美佐《みさ》は屈託《くつたく》なく聞く。その様子を冷静な顔で見ているのがメメだ。 彼女も白衣を着てはいるが、どうやらママさんに無理やり着せられているようだった。 その証拠に、他《塁力》の二人がきっちりとナースシューズをはいているのに対して、メメだけがスリッパである。細かい部分までは、どうでもいいらしい。 「たぶんね」 今までずっと黙《だま》っていたメメが口を開いた。 「なに、メメちゃん、どうしたの?ママさんに言ってみなさい?」 グイグイと佐間太郎の顔面を胸に押し付けながら、ママさんがメメに聞いた。 「たぶんね、苦しい。それ」 「え?苦しい?ううん、ママさん苦しくないの。辛くないの。むしろ幸せ。でも、その幸せが時として怖い。だって佐間太郎ちゃんがいつ他の女の毒牙《どくが》に……」 「いや、そうじゃなくて。お兄ちゃんが」 メメの言葉と同時に、佐間太郎の体が激しく痙攣《けいれん》したかと思うと、そのままグッタリと ---------------------[End of Page 46]--------------------- して動かなくなった。ママさんは恐る恐る、彼の顔を胸から離す。 佐間太郎は真っ青な顔をして、おまけに白目まで剥《む》いていた。 「きゃあああああ1佐間太郎ちゃん!しっかりして!誰《だれ》がこんなふうに1誰がこんな酷《ひど》いことをっ!」 「ママさんでしょー!なにやってるんですかi!」 そこでようやくテンコは声を出すことができた。佐間太郎をママさんから奪い取《レロ》ると、頬《ほお》をペチペチと叩《たた》き、意識を確かめる。しかし彼はグッタリしたままで、完全に気を失っているようだった。 「わあああ!佐間太郎が失神《しつしん》してるi!」 「やーね、ママさんの胸がそんなにビックリだったのかしら?」 「違います1息です1息の問題です1呼吸の!」 その言葉を聞いて、美佐が不意に真剣な調子で言った。 「呼吸Pまさか、胸で呼吸できなかったのP」 あまりのシリアスさに、テンコは気圧《けお》されて小声で答える。 「そ、そうですけど……」 「そうか……呼吸か……だーっはっはっは!胸で呼吸できなくて倒れるなんて!あっはっはっは!こりゃ傑作1」 ---------------------[End of Page 47]--------------------- 「笑わないでください!」 なんてことはない。彼女の真剣な調子は「よく考えてみれば面白かった」の「よく考えてみれば」の部分だったのである。 「だって、胸で1失神《しつしん》て!あっはっはっは1お腹痛い!お腹痛い!ギブ!」 「ギブなのは佐間太郎《さまたろう》の方です!部屋まで運びますからね!」 テンコはそう言って、佐間太郎を背負う。小さな彼女の体には、男の体重は少し重いらしい。力を入れながら玄関を上がると、ママさんと美佐《みさ》が合わせてもいないのに同時に言った。 「ヒューヒュー」 「そんなんじゃありません1」 「でも佐間太郎ちゃんはママさんのものだからね!」 「だったら気絶させないでください1」 「あっはっはっは!胸で気絶て1オカスィ!1」 「美佐さんは笑わないでくださいっ!」 テンコは二人の声を背に受けながら、佐間太郎を彼の部屋に運ぶのだった。 「で、どういうことですか?」 ---------------------[End of Page 48]--------------------- 襯雌家の食卓では、テンコの開いた家族会議が行われている。議題は当然「なんで白衣着てんですか。しかも裸の上に」である。 「だ、だってさあ……佐間太郎ちゃん喜ぶかなあ〜って思って。ね、凡、美佐?」 いまだ白衣姿のママさんが小声で眩《つぶや》く。責任を美佐になすりつけようとしているのが丸見えだ。しかし、こんなこと(白衣でお出迎え)を考え付くのはママさんしかいない。 仮にも彼女は女神なのである。姉の美佐と一緒に歩いていても姉妹と間違えられてしまうほど若々しく、メイクなど必要ないほどに美しい。 そんな美貌《ぴぼう》を持っていながら、こんなことをしていていいのだろうか。 「いいんじゃないの?だってほら、佐間太郎喜んでたじゃん?」 美佐が綿棒で耳をいじりながら言った。彼女と妹のメメは、女神候補である。 女神である彼女は耳をほじっても何も出てはこないが、そのモゾモゾ感がたまらないらしい。現に今も、耳をほじりながら「あ……う」と小さな声でもだえている。 テンコが真剣に怒っていることなどおかまいなしだ。むしろ、その怒りに気づいていないという可能性もある。 「もう1美佐さん、真剣に聞いてください!それにメメちゃんっ。こういうことしたらダメって前に言ったでしょ?」 テンコはメメに向かって優しい調子で言う。メメは氷の入ったオレンジジュースをスト ---------------------[End of Page 49]--------------------- ローでチュルチュルと飲んでいたが、その動作を一瞬だけ止め 「うん」 と頷《うなず》いた。 「はあ……みんながこんなに素直だったらいいのに……」 ため息をつくテンコに、テーブルの上に指でなにやら文字を書きつつママさんが言った。 「だってさ、メメちゃんがやれって言うから……」 「なんでそういうすぐバレる嘘《うそ》つくんですか1それに、テーブルに『テンコのバカ』とか書かないの1」 「やーん!書いてないもん!ママさん、そんなこと書いてないもん!」 テーブルにはしっかりと彼女の指紋の跡が「テンコのBAKA」と残っていたが、テンコはあえてなにも言わなかった。……なぜ「バカ」だけローマ字? 「はい、じゃあみんな、反省しましたか?」 三人は、それほど反省していない様子で「はあ〜い」と答える。さっきまであんな息がピッタリだったのに、今のバラバラっぷりはなんなのだろうか。 「じゃあ心の声を使って、三人で佐間太郎《さまたろう》に謝ってください。きっと、もう意識は戻ってるはずですからね」 三人はイメージを佐間太郎の部屋へと飛ばし、「ごめんなさーい」と間延びした声で眩《つぶや》 ---------------------[End of Page 50]--------------------- いた。もちろん彼からの返事は返ってこない。いじけているのだ。 「佐間太郎、もうしないって言ってるから許してあげてね』 テンコも同じようにして声を送る。しかし、返事はない。 「あーあ、佐間太郎ちゃん怒っちゃったー」 ママさんがイスを前後に傾け、ギシギシと揺らせながら言った。 「ママさんたちのせいじゃないですか!もう、他人事《ひとごと》みたいに!」 「でもさ、ちょっといい?」 既《すで》に白衣を脱ぎ、タンクトップと下着だけになった美佐《みさ》が言った。なにやら反論があるようだ。 「なんですか、美佐さん。もうちょっとマシな服を着ないと発言権はありませんよ」 「まあまあ、ちょっと聞いてよ。佐間太郎がヘコんでんのって、本当にあたしたちだけのせいなの?」 彼女の言葉に、テンコはピクンと体を震《ふる》わせる。その反応に気づいたのか気づいてないのか、美佐はやめることなく会話を続けた。 「夏休みに入ってから、あいつ変じゃない?なんだかテンコから距離取《レ一》るような態度してさ。もしかして、なんかあった?」 「あら、テンコちゃんそうなの?なんかあったの?ママさんに相談なさいな。え? ---------------------[End of Page 51]--------------------- なんかあった?なんかってなによ1もし変なことだったら、い、い、いくらテンコちやんでもママさん、女神的な怒りを露《あらわ》にしちゃうからねー・」 ママさんの前後運動は激しくなり、まるで揺りイスのような動きでギシゴシゴリゴリと音を上げる。 「あたー!」 ついには、バタン!という大きな音と共に、ダイニングの床にイスごと倒れてしまった。こういう落ち着きのない小学生、必ずクラスに一人はいたものである。 「いたたた……それで、なにがあったの?テンコちゃん、答えなさい」 「なんもないです!失礼しますっ!」 テンコはそう言うと、ダイニングから出ていき二階にある部屋へと入ってしまった。 三人は、ダダダダ(走る音)、ガチャン(ドアを閉める音)、わーん!(号泣)という三連コンボを聞き、それ以上追及する気にはなれなかった。 「あたし、なんかマズイこと言っちゃった……よね?冗談のつもりだったんだけどな」 「なーかしたーなーかしたー♪みーさちゃんがーなーかしたー♪」 ママさんがイスに座り、倒れたままの姿で口ずさむ。美佐《みさ》はダイニングの真上にあるテンコの部屋を見上げ、ボソッと眩《つふや》いた。 「まあ、若いんだしこういうこともあるって。命短し、恋せよ乙女《おとめ》ってね」 ---------------------[End of Page 52]--------------------- 美佐が腕を組んで「うんうん、あたし今、いいこと言った、いいこと言った」と繰り返すと、メメが一言だけ付け足した。 「天使だから死なないけどね」 そしてオレンジジュースの残りを、ジユゴゴゴゴと飲むのだった。 翌日、テンコは朝になっても起きてこなかった。今日は学校のない土曜日だが、普段なら誰《だれ》よりも早く起き、新聞受けから新聞を取《と》り出し、朝食を作っている彼女が、だ。 美佐はまだ布団《ふとん》の中にいたが、さすがにテンコのことが心配になって意識を送った。 「テーンコちゃーん。昨日のこと、まだ気にしてんの?』 しばらくして、彼女から音声のみの意思が届いた。 「ちょっと具合悪くて。だから今日は家事はお休みします。ママさんにごめんなさいって言っておいてくださいそれじゃあ失礼しますおやすみなさいぐーぐーぐー』 最後の方はかなり強引な早口で、しかもたぬき寝入りであったが、美佐は「わかった、伝えておく」とだけ言ってコミュニケ:ションを終えた。 どうしたものかと途方に暮れていると、ドアの向こうで誰かの足音が聞こえた。美佐は散らかり放題の部屋の中を、飛び石を踏むようにゴミを避けながら進み、ちょっとだけドアを開けて廊下を見た。 ---------------------[End of Page 53]--------------------- 「あ。姉ちゃん。俺、出かけてくる」 外にいたのは佐間太郎《さまたろう》だった。Tシャツにハーフパンツをはいている。 「なんだ、あんたか……テンコかと思ったよ」 「え?なんかあったの?」 「なんもないけど。で、どこ行くの?」 「別にどこだっていいだろ」 彼はそう言うと、さっさと階段を下りて玄関に向かった。美佐《みさ》は女神の勘でピキーンときてしまった。 「これは浮気だわね。いけないことだわ、ぜひ調査せねば!」 などと言いつつ、顔は完全に笑っている。もし浮気だったら面白いことになりそうだなーという、好奇心に満ちた顔である。 そもそも浮気と言っても、佐間太郎に彼女はいない。しかし、昨日のテンコの様子を見ていると、きっと、なんとなく、もしかしたら、そんな気がしたのだ。 「ちょっと待って!あたしも行くから1」 美佐は玄関でビーチサンダルをはいている佐間太郎に向かってそう言うと、急いでタンクトップを脱ぎ捨てた。彼女が部屋のクローゼットを開けると、そこだけが別世界のようにきれいに整頓《せいとん》されている。洋服だけは丁寧《ていねい》に扱うらしい。 ---------------------[End of Page 54]--------------------- 「えーと、今日は、これ……と、これっ」 ピッタリとしたTシャツと、同じくタイトなミニスカートを選ぶと、なにかの競技のようなスピードで着替え、転がるように階段を駆け下りる。靴《くつ》箱を開け、薄い色のミュールを取《と》り出すと、それをはいて表へ飛び出した。 「は、早い……」 さっさと出かけようとしていた佐間太郎は、その驚異的なスピードに驚いた。 「ブイッ。あんたに逃げられるほどあたしはグズじゃないよ」 とピースサインを出しながら言ったものの、髪の毛が寝癖《ねぐせ》で跳ね上がっている。いつもの彼女の、シックなストレートヘアとはほど遠い。あの髪の毛も、登校前の数時間のドライヤータイムのたまものなのだなと彼は思った。 「あっ。あんた、頭のこと気にしてるんでしょう?ふふ、大丈夫」 そう言うと美佐はどこからか黒い髪留め用のゴムを取り出し、それで髪の毛をざつくりと二つにくくった。そうすると、寝癖が気にならないどころか、普段とは違う清楚《せいそ》な印象さえ感じられる。 「こういうのに男は弱いのよねー。普段しっかりしてる女の子の、ちょっと野暮《やぼ》ったい感じっての?あんたも好き?」 目の前の姉の年齢が、いきなり三歳は若返ったように思えた。これなら、中学生と言っ ---------------------[End of Page 55]--------------------- ても通じるかも知れない。思わず見とれてしまったが、佐間太郎《さまたろう》はそれを隠すように歩き出す。 「そんなの好きじゃない。置いてく」 「やーん1待ってよ!佐間太郎ちゃ〜ん!」 美佐《みさ》は猫なで声を出すと、彼のTシャツの裾《すそ》をコッソリと掴《つか》んで歩き出した。 二人は黙《だま》ったまま歩き続ける。家のある住宅地を抜け、駅前の商店街を横切る。 このまま駅の向こうに行けば、彼らの通う菊本《きくもレ 》高校だ。もちろん今日は、学校に向かう道とは別のところへ進む。 最初はなにが起こるのかと興奮していた美佐だが、次第に退屈になったようで、鼻歌を歌ったり、「あ、カラス。カーカー」などと見たものの名称を口に出してみたりしていた。 さすがにそれにも飽《あ》きたのか、今度は黙って歩いている佐間太郎に話しかける。 「なんかさ、こうやってデートするの久しぶりだね。いつもテンコと一緒だから、二人っきりなんてないもんね」 「デートじゃねえし」 「なーんでっ?デートじゃない。男でしょ?女でしょ?二人でしょ?デート」 「家族だろ」 素っ気ない態度の佐間太郎に、美佐は少々カチンとくる。どうやら、女神としてのプラ ---------------------[End of Page 56]--------------------- イドを傷つけられたらしい。 「じゃ、こうしたらデート?」 彼女はそう言って、彼の手をギュッと握った。 「な!なにすんだ!離せ1」 「わ、顔赤くなってる。あたし、お姉ちゃんなのにねー。家族なのにねー。カワイー」 「いいから離せ1友達に見つかったら誤解されるだろ!」 「誤解もなにもないじゃない?仲のいい姉弟《きようだい》ねi、で済むでしょ?」 美佐《みさ》は、握っている手に力を入れた。柔らかい女の子の肌の感触が、彼の脳に「けっこういいですね、姉だけど」という信号を送る。 「ダメだ1姉弟だったら、余計に変じゃねえか!」 「えー?ダメ?ねえ、本当に……ダメ?」 美佐は佐間太郎《さまたろう》の目を真《ま》っ直《す》ぐ見つめて言った。その瞳《ひとみ》には、小さな七色の光が浮かんでいる。彼はその光を見た途端、全《すべ》てがどうでもよくなってしまいそうになった。 光はゆっくりと彼女の目から離れ、空中をフワフワと泳ぎ、佐間太郎の方へ近づいてきた。それはとても温かくて、フンワリとした柔らかい輝きだった。 もしこの光が自分の目に届いたら、きっと美佐の言っていることが全部許せてしまうに違いない。佐間太郎はハッして彼女の手を振《ふ》り解《ほど》くと、その光を手でガッと掴《つか》み、ゴミで ---------------------[End of Page 57]--------------------- も捨てるように道路に叩《たた》き付けた。その上、ビーチサンダルの底でグリグリと踏みにじる。 美佐はその様子を見て、悔しそうに舌打ちをした。 「ちっ。しくじったか……」 「だからな、こういうの俺《おれ》に使うのやめろ!あっぶね、凡……」 美佐が使ったのは、『女神の吐息』と呼ばれる女神だけが使える奇跡である。テレパシーを使える以外にとくに取《レ一》り柄《え》のない佐間太郎やテンコと違い(それだけでも十分なことではあるが)、女神の美佐にはそのような特別な力があるのだ。 これは、人の心を誘惑する不思議なパワーである。吐息という名前がついているが、実際は香りであったり、光であったり、小さな星であったり様々だ。 この力により、女神は人の気持ちをある程度操作することができる。もちろんママさんもメメも使えるが、積極的に使用しているのは彼女だけのようだ。 「と、に、か、くっ。今度これ使ったら置いてくからな」 道路に落ちて泥まみれになった光を見ながら、佐間太郎はそう言った。 「はーいっ」 美佐は素直に反省した振りだけして、またしても佐間太郎の手を握り歩き出した。 そこから十分ほど歩いた末、二人が着いた場所は、駅から少し離れた場所にある病院だった。 ---------------------[End of Page 58]--------------------- それを見た瞬間、美佐《みさ》は佐間太郎《さまたろう》の手を振《ふ》り解《ほど》き大声で怒鳴る。 「なによ!病院かよちくしょう!聞いてないわよ1」 「姉ちゃんが勝手についてきたんだろ!」 「おっもしろくなーいのっ。なにこれ。帰る。美佐タン帰る」 「帰れ。山にでもどこにでも帰れ」 クルッと振り向いた美佐だったが、ふとある考えが頭を過《よギ、》った。 「はっはーん。お相手は美人ナースか……そういうことか……」 またしてもクルッと振り返り、彼女は勝ち誇《ほニ》ったような顔で笑う。 「ふっふっふっふ。あたしを騙《だま》そうとしてもそうはいかないからね!詰めが甘いのよ、詰めが1」 「な、なんのこと?」 「いいから案内しなさいー─どこにその巨乳メガネっ娘《こ》ナースがいるっての1」 「なに!なに!なんの話1」 美佐は佐間太郎を引《ひ》き摺《ず》るようにして、院内へと向かうのだった。 「いやあー1美佐さんがお見舞いに来てくれるなんて、感激っすよ1マジ嬉《うれ》しいっすよ1むしろ、切ないっすよおおおおお1」 ---------------------[End of Page 59]--------------------- 「あーら、もう進一《しんいら》くんてば、口が上手なんだから。私なんかで良かったら、いつでもお見舞いに来てあげちゃうから1でもごめんなさいね、美人ナースとかじゃなくて」・ 佐間太郎は、目の前で繰り広げられる会話にグッタリとしていた。進一のお見舞いに一人で来ようと思っていたのに、美佐まで一緒に来ることになってしまったからだ。 そして、この驚くほどの外面《そとづら》の良さ。二重人格と言ってもいいかも知れない。 さっきまで大声で笑いながら、病院の廊下を佐間太郎のことを引き摺り回していた人物と同じとは思えない。 「いやもう、ナースなんて目じゃないっすよ。あ、でも、美佐さんがナースだったら、俺、すぐ骨折も治っちゃいますって!」 「あらもi!ほんとーにお上手ね。うふふっ」 そう言いながら、美佐は目の端から小さな星をいくつか飛ばした。進一がそれを空気と一緒に吸い込むと、まるで酔っ払ったような赤ら顔になっていく。 女神の吐息を使われているのだ。ただでさえ美人の彼女に、そんな力まで使われたら惚れないわけがない。彼は今、美佐に夢中だ。 「あ〜ひ〜、美佐さんがナースさんだったらあ〜幸せだなあ〜」 佐間太郎は、昨日のことを思い出した。三人にナース姿でお出迎えをされた時のことだ。 いや、全然幸せじゃなかったぞ。むしろ、呼吸を止められて落とされたぞ。 ---------------------[End of Page 60]--------------------- 落としたのは美佐《みさ》ではなくママさんだが、彼にとってはどっちでもいいらしい。 「じや、あんまり長居するのもなんだし、私はこのへんで失礼するわね。佐間太郎《さまたろう》、ちゃんと彼の面倒見てあげるのよ。ケガしてるんだからね」 そう言って美佐は、病室に置いてあったパイプイスから立ち上がる。ベッドで寝ていた進一《しんいち》は、反射的に上半身だけを起こし彼女を止めようとした。しかし……。 「もう、まだ動いたらダメ★元気になったら、一緒に遊びましょうね」 美佐は進一の鼻を人差し指でチョンと撫《な》でると、そう言って病室から出ていってしまった。その瞬間、同室にいた男性患者が一斉に声を上げる。 「な、なんだあのキレイな人1そこの兄ちゃんの恋人け!」 「ええのう1ええのう!若いもんはええのう!」 進一が入院しているのは大部屋だったのである。もしかしたら美佐は、この病室にいる全員に女神の吐息を使っていたのかも知れない。 患者たちは、彼女が今頃《ごろ》「あi1来て損した!帰って寝る1」と眩《つぶや》きながら歩いていることを知らず、美佐に想《おも》いを馳《は》せている。 「うわ、佐間太郎、ここはちょっとうるさいから外行くそ、外」 「え?お前、歩けるのかよ?」 「松葉杖《まつばづえ》使えば大丈夫、ちょっと手、貸してくれ」 ---------------------[End of Page 61]--------------------- そう言って彼は、松葉杖を使って「ナンダコラー1あのねーちゃんの胸の大きさ教えろやー!」などの罵声《ばせい》から逃げ出した。 病院の中庭に行くと、入院患者が日向《ひなた》ぼっこしていた。 この暑い陽気だというのに、よほど病室にいるのが退屈なのだろう。 佐間太郎は自動販売機で冷えたジュースを買い、ベンチで座っている彼のところへ運んだ。 「サンキユッ」 進一はプルタブを押し開け、一気にそれを飲み干した。 「プハ。あのな、佐間太郎、あそこに、木、あるだろ?」 「お前……まさか、また……」 「違うよ!そうじゃなくて1その下に、車椅子《くるまいす》の女の子がいるだろ」 佐間太郎は、木の上から視線を根元の方へと移す。確かに、そこには一人の少女が車椅子に乗って真剣な眼差《まなざ》しで遠くを見つめていた。 「あのな、俺な、あの子に恋をした。やばい、運命かも」 さっきまで美佐に夢中になっていた男のセリフとは思えない。しかし女子諸君、男の子なんてこんなものなのである。 「はっP”そ、そうなの?あの、隣のクラスの女の子ってのは?」 ---------------------[End of Page 62]--------------------- 「そんな奴《やつ》しらん。今は、あの彼女しか目に入らないね」 なんと移り気な男だろうか。佐間太郎《さまたろう》は自分用のジュースを一口飲むと、進一《しんいら》の新しいお相手である少女を観察した。 彼女はかなり小柄に見えた。もしかしたら、上手《覧つま》く体が発育していないのかもしれない。 年は二人と同じで、高校生ぐらいに見える。真っ黒い髪の毛をどこまでも伸ばし、血の気のない顔をしていた。いかにも不健康そうな感じだが、確かに整った顔をしている。これで健康的だったら、申し分なく美人と呼んでいいだろう。 ただ、彼女は膝《ひざ》の上に大切そうにマクラを乗せていた。もしかして、「すぐ眠くなっちゃう病」とかだろうか。おかしなところは、それだけではなかった。佐間太郎は少女を見て、なにか違和感を感じたのだ。 そうだ、あの顔、どこかで見たような気がする。以前、どこかで彼女を見たことがあるはずだ。それがいつなのかはわからない。ただ、確実にあの顔を見たことがある。 「どうだ?カワイイだろ、あの娘《こ》」 「ああ、そうだな」 佐間太郎はそのことが気になって、つい生《なま》返事を返してしまった。しかし進一はまったく気にせず、ニヤニヤと少女のことを見ている。 「で、あの娘の名前はなんていうんだよ」 ---------------------[End of Page 63]--------------------- 「知らん」 「知らんて1用意周到なお前らしくないな。入院してるんなら、部屋にでもどこでも名前が書いてあるだろ」 「それが、あの娘だけ書いてないんだよ。看護婦さんに聞いても教えられないって言うしさ。なんつーか、そういう謎《なぞ》めいたとこもいいよな……。惚《ま》れた。むしろ、愛し過ぎた」 佐間太郎は半ば呆《あき》れつつ、もう一度彼女の顔を見た。 そうだ。確かに以前、どこかで見たことがある。 それは間違いようのない確信となった。 その頃《ころ》テンコは、神山《かみヤま》家の自分の部屋で戸惑っていた。 目の前の現実に、対処しきれていないようだった。 泣いていいのか、喜んでいいのか、どうすればいいのかわからないのだ。 「……や……った……」 あまりに小さな声で眩《つぶや》く声は、誰《だれ》にも聞こえない。もしかすると、彼女自身にも聞こえていないのかも知れない。 「赤ちゃん……で……きちゃった……」 テンコは、ここ数ヶ月のことを思い出す。 ---------------------[End of Page 64]--------------------- そして、ハッキリと心当たりがあることを自覚した。 「どうしよう。赤ちゃんできちゃった……」 確かにこれは、佐間太郎《さまたろう》との間の子供だ。 それはもう、間違いようのない事実なのだ。 ---------------------[End of Page 65]--------------------- 二章テンコの赤ちゃん 佐間太郎が帰宅すると、予想通り美佐《みさ》はモーレツな勢いでダレていた。 タンクトップに下着といういつもの格好で居間のソファーに寝転がり、ウチワでパタパタと自分を扇《あお》いでいる。しかもタンクトップの胸の部分を指で引《ひ》っ張り、その隙間《すきま》に涼風を送っているのである。もちろんタンクトップの下に下着類はつけていない。 「佐間太郎お帰り。つうか、なにあれ。浮気じゃないのね。正直、あたしガッカリ」 帰宅と同時に愚痴だ。しかも、一方的な勘違いの上での、である。 佐間太郎は呆《あき》れ、彼女を無視して自室へ向かうことにした。 しかし美佐はそのセクスィーな姿で立ち上がると、いつになく真面目《まじめ》な調子で言った。 「あのさ、あんたとテンコ、なにかあったの?最近のあの子、変だよ?今日だって部屋に閉じこもっちゃってさ。具合悪いって、天使なんだから体壊すわけないじゃない?だとしたら、精神的にまいってるのよ」 真面目な調子なものの、グイッと広げた胸をウチワで扇ぐことはやめない。しかし、これでも彼女なりに心配しているのだ。 「別になんもない。それより、姉ちゃんこそなんか言ったんじゃないの?」 ---------------------[End of Page 66]--------------------- 美佐《みさ》は思わずウッと捻《うな》ると、「言ってません……」と言ってソファーに倒れ込んだ。 明らかになにかを言ったに違いない、と佐間太郎《さまたろう》はすぐに悟った。 階段を上がりながら、テンコが部屋から出てこないのは確かに変だと彼は思う。 ニ階に上がると、メメがグレープフルーツジュースのお代わりを台所に取《レb》りに行くところだった。 「なあメメ。テンコ、出てきたか?」 「ううん」 「そっか……」 メメは佐間太郎になにか聞かれたことなど、まったくなかったかのように階段を下りて行った。こういうクールな妹は、変に気を使わなくていいから楽だ。 さすがにもう少し愛想《あいそ》よくした方がいいとは思うが、年頃《ごろ》になれば自然とそうなっていくだろう。佐間太郎は自室には向かわず、テンコの部屋へと足を向けた。 向けたものの、どうすればいいのかわからなかった。 ドアの前で廊下を何度か行ったり来たりした末、勇気を出して佐間太郎はノックをした。 家族の部屋をノックするだけなのに勇気を出すなんて変だなと思いながらも。 「お:い、テンコー。いますかー?」 彼女は昨日から、部屋から一歩も外に出てはいないのだ。いるに決まっている。しかし ---------------------[End of Page 67]--------------------- 佐間太郎は、なんだかバツが悪くてそんなふうに言った。 すると、勢いよくドアが開き、暗闇《くらやみ》の中から真っ白い手がニュッと現れた。 「わP”わわわわP”」 逃げる間もなく、その手は佐間太郎を掴《つか》み、一瞬で部屋の中へと引《ひ》き摺《ず》り込んだ。 食虫植物がハエを食べる瞬間のような素早さだ。 佐間太郎は部屋の中に転がり込むと、状況を把握しようと室内を見渡した。 まだ昼間だというのに、テンコの部屋は真っ暗だった。雨戸を閉めきった上に、丁寧《ていねい》にカ:テンまで引かれている。さらに、電気さえ点《つ》いていないのだ。 なるほど、これなら真っ暗でも仕方がない。しかし、どうして彼女はそんなことをしているのだろうか。 小学校の時から使っている学習机、きちんとカバーが被《かぶ》せてあるシングルサイズのベッド。年季物のタンス、CDラック、小さな本棚。 いつもと変わらない部屋の隅に目を凝《こ》らすと、テンコは寒気を我慢するように身を縮めて立っていた。 「どうしたんだよテンコ。部屋から出てないらしいじゃないか。なんかあったのか?」 恐る恐るテンコに近づく。暗闇の中で、うっすらと彼女の影だけが見える。 「どうしよう……どうしよう……」 ---------------------[End of Page 68]--------------------- 近づくにつれ、彼女の泣き声のような言葉が聞こえてきた。それはよほど注意していなければ聞き取《と》れないような、ほんの微《かす》かな空気の振動だった。 「な、なんだよ。どうしたんだよ」 不安げな彼女に対しても、少しぶっきらぼうな態度で声をかけながら、佐間太郎《さまたろう》はテンコにさらに近づく。 一歩、また一歩。ついには、手を伸ばせば届く距離までやってきた。 「捕まえたっ1」 彼は手を伸ばし、彼女を抱きしめるように捕獲した。なぜか彼には、手を伸ばしたらテンコが逃げてしまうような気がしたのだ。 しかし、実際は逃げるどころか、佐間太郎の体に抱きついてきた。 「わーん1佐間太郎、大変なことになっちゃったよう1」 「ど、どうしたんだよ、おい、泣かなくていいから理由を言え、理由を」 「それがね……ぐすぐす……あのね……」 テンコは必死に涙を止めようとするが、こみ上げてくる感情を抑えることは無理みたいだ。 「あのね……その……。あう、やっぱり言えないよう1」 「なにがだよ1言えよ1いいから、なにを言っても驚かないから言うんだ!」 ---------------------[End of Page 69]--------------------- 「本当に?本当に驚かない?」 彼女は佐間太郎の胸の中で、不安そうに何度も繰り返した。 まるでメロドラマじゃないか、こんなお昼にやってそうな安っぽいシチュエーションは嫌だぞ……。佐間太郎はそう思ったが、今はそんなことを言っている場合ではない。 笑顔を無理やり作り、テンコの言う「大変なこと」を優しく聞き出そうとした。 「泣いてちゃわからないだろ?言ってみろよ。大丈夫、どんなことがあっても」 「本当だよね?信じていいんだよね?」 「もちろんだ」 ようやく彼女は落ち着きを取り戻すと、カバーのしてあるベッドの上にボスンと腰を落とした。佐間太郎もそれに倣《なら》い、テンコの横に腰掛ける。 「……で……ちゃったの……ちゃ……」 彼女は絞り出すような声で佐間太郎に告げた。しかし、あまりにもか細い声は、彼の元まで届かない。 「なんだよ?もう一回言えよ。はっきり、言えよ」 「う……あのね……その……」 �フまでずっと下を向いてい読テンコが、ようやく顔を上げた。泣き虚んだばかり特有の、腫れぼったい目が佐間太郎を捉える。 ---------------------[End of Page 70]--------------------- 「できちゃったの、赤ちゃん」 「は?」 佐間太郎《さまたろう》は、頭をバールのような物でこじ開けられたような感覚に陥った。 赤ちゃんが、できた?テンコに、赤ちゃんができた? 「相手は誰《だれ》なんだよ!おいっ!」 彼は思わず立ち上がり、テンコの両肩を掴《つか》んで揺すった。 「や、ちょ、痛いよ!やめてよ!」 「いいから、相手は誰なんだ!言えってば!」 「……それは……その……」 「なんだよ?俺《ゴオ》の知ってる奴《くフ》か?知らない奴か?」 テンコは人差し指で矢印を作り、ゆっくりと佐間太郎の顔に向けた。 そして沈黙。彼には、今の状況がまったく理解できなかった。 「相手は、佐間太郎」 しかし、テンコの言葉はどんなダイアモンドよりも硬く、佐間太郎の心を貫いた。 「俺が。父親?」 「うん」 彼女は泣いたからなのか、それとも別の理由からか、頬《ほお》を赤くして傭《うつむ》いた。 ---------------------[End of Page 71]--------------------- 神山《ひゐや2》佐間太郎、高校一年生。今日から父親になります。 そんな昼メロのような盛り上がりを見せるテンコの部屋を、ドアの隙間《すきま》からコッソリと覗《のぞ》いている人物がいた。 神山家一番のクールビューティー、小学五年生のメメである。 彼女は二人に気づかれないようにドアをこっそり閉めると、トトトと軽快な足音を立てながら階段を下りた。それから鼻歌を歌いながら洗濯物をしていたママさんに「部屋、入る」とだけ告げる。 ママさんは通信販売で買った、どんな黒いTシャツでも白くします1という洗剤を、ガボガボと洗濯機に入れながら「パパさんのお仕事の邪魔しちゃダメよ〜♪」と歌うように答えた。 メメはコクンと頷《うなず》き、夫婦の寝室である一階の和室へと向かった。 フスマを開け部屋に入ると、迷わず押入れを開ける。 すると、押入れの中には布団《ふとん》などは入っておらず、代わりに木製のドアが一枚立てかかっていた。そこには貼《は》り紙で「天国への扉。開けちゃダメよ★パパさんより」と書いてある。メメはノブに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。 一瞬、嵐《あらし》のように強い風がドアの中から吹き出し、彼女の全身を包み込む。 ---------------------[End of Page 72]--------------------- メメは奥歯を食いしばり、その強風が収まるのを耐えた。 時間にして十数秒だろうか。突風が止《や》むと、今度は穏《おだ》やかな鳥の声が聞こえてきた。 彼女はフゥと息を吐き、迷わずにそのドアの中へと入る。 そのドアは、押入れの中に立てかけてあったのではなかった。押入れの中から、天国へ向かうための直通ドアだったのだ。 どういう構造になっているのかわからないが、大股《おおまた》で一歩踏み込むと、そこはもう空の上だった。柔らかい綿菓子《わたがし》のような雲が足場になり、その周囲には真っ青な空が広がっている。高所恐怖症の人間だったら、こんな場所は耐えられないだろう。 しかしメメは臆《おく》することなく、廊下を歩いていた時と変わらぬ調子で雲の上を歩き出した。体重の軽いメメは、普通に歩いてるつもりが、雲の弾力によりスキップしているような歩き方になってしまう。 アスファルトが全部、トランポリンでできていると言えば想像しやすいだろうか。バランスを崩すと、すぐに倒れ込んでしまいそうだ。 雲の大きさは、ひとつがシングルサイズのベッドほどの大きさだった。それほど小さいわけではないが、極端に大きいわけでもない。 一歩足を踏み外せば、空からまっ逆さまに地面に落ちてしまう。もし落ちたとしても、彼女は女神なのでケガをすることはない。それにしたって、少しは恐怖感を覚えてもおか ---------------------[End of Page 73]--------------------- しくないはずだ。 しかし、メメは至って冷静な顔をして雲の上をスキップし続けた。 数分ほど進むと、今度は雲の上にドアがポツンと立っていた。 それは、夫婦の寝室である和室の押入れの中にあったものと同じ材質でできていた。ドアに貼ってある紙には「パパさんのお仕事場。緊急時以外の入室は禁止します。ママさんは特別、好きだから。パパさんより」と書いてあった。 メメはそのドアを二回だけノックすると、なんの躊躇《ちゆうちよ》もなく開けてしまった。 今度は、さきほどのような突風はなかった。ただ、小さな音でクラシックのような音楽が聞こえてくる。 ドアの中に入ると、少しカビくさい臭いが鼻をくすぐる。思わずクシャミが出そうになるが、メメは指先で鼻をクシュクシュと撫《な》でた。 そこは、少し広めの書斎のような部屋だった。壁に備え付けられた巨大な本棚には分厚い本が大量に並び、背表紙を見ても何語が書いてあるのかさえわからない。 部屋の中心には、とても偉い人が使うような豪華な机が置いてあり、その上にはこれまた大きな地球儀が勝手にクルクルと回転している。万年筆や赤ペンに混じって、ビールの空き缶が数本、机の上に散らかっていた。 ドアから一番遠い壁には大きな窓があり、パパさんはその窓を開けて釣りをしていた。 ---------------------[End of Page 74]--------------------- 麦藁帽子《むぎわらぼうし》に、白のタンクトップ。そして探検家がはくようなベージュのハーフパンツに、ビーチサンダルという姿である。彼はメメが部屋に入ってきたことに気づくと、肩をポキポキと鳴らして振り返った。 「ん?なんだ、メメちゃん、どしたの?」 メメはテケテケと音を鳴らしながらパパさんに近づき、腰を九十度に曲げて模範的に頭を下げると 「ありがとうございましたっ」 と言った。パパさんは慌《あわ》てて釣竿《つりざお》を床に置き、メメを抱き上げた。 「なに、どしたの。パパさんなにもしてないよ?あれだろ、佐間太郎《さまたろう》とテンコちゃんが最近仲悪いからどうにかしてくれってのだろ?うん、まだなにもしてないな」 「えつ・だって、お兄ちゃんとテンコ、部屋で抱き合ってたよ……」 「部屋でつ・そりゃあれだよ、勝手に仲直りしたんだよ。よかったな、メメちゃん」 「うん」 パパさんはメメを抱きかかえながら、赤ちゃんをお守《も》りするように部屋の中を歩き回った。彼女は、自分はそんな子供ではないと反論したかったが、どこか心地の良い感触に口をつぐんだ。 実は彼女、昨日の会議の後に、テンコと佐間太郎の仲が心配になってパパさんの元を訪 ---------------------[End of Page 75]--------------------- れていたのだった。パパさんは現在、人間世界を離れ、天国に出張ということになっている。美佐《みさ》も佐間太郎もテンコも、天国とはとても遠いところにあると思っているのだ。 しかし、実際は押入れの中のドアから、徒歩五分である。 ママさんだけが知っていた秘密であったが、メメは暇つぶしに家の中を探検している時に偶然見つけてしまったのである。 ママさんはそのことに気づき、「パパさんのお仕事の邪魔しちゃダメよ」と彼女と約束をしていたが、テンコと佐間太郎の関係をどうにかしたいと思ったメメは、その約束を破ってパパさんの元へと向かったというわけだ。 「でもパパさん驚いちゃったよ。昨日、メメちゃん急に来るんだもん」 「ごめんなさい……」 「あ1そうじゃないの1そういうことじゃないの!別に怒ってないよ。ただね、ここに来る方法を知ってるなんてさ、思ってもみなかったら。でもね、これからも遊びに来ていいんだよ。週に五回ぐらい来ていいよ!」 「それ、多過ぎ……」 「あ!多過ぎだね!確かに多過ぎた1パパさん、多過ぎ!」 パパさんはウフフフと嬉《うれ》しそうに笑った。その笑顔を見て、滅多に笑わないはずのメメも、思わずつられて笑ってしまった。 ---------------------[End of Page 76]--------------------- 「ねえパパ、今日も釣りしてるの?」 「そうそう、そうだよ、見るかい?」 パパさんは窓際にメメを連れていき、一緒に窓の外を覗《のぞ》き込んだ。するとそこには、雲の隙間《すきま》を縫《ぬ》うように透明の川が流れていた。 「これがね、天の川。七夕《たなばた》の。知ってる?」 「うん」 メメは目を凝《こ》らして川の底を見た。遥《はる》か彼方に、小さく街のようなものが見える。底のない川を見るなんて、彼女にとっては初めてのことだった。 それも、空に流れている川だ。 「あれ、なに?」 メメは小さな指で川の上流を指差した。そこからは、カラフルな紙切れが何枚も流れてくる。パパさんは釣竿《つりざお》を拾うと、ヒョイと川に向かって投げる。 針が雲をかきわけ、川の中心へと垂《た》れる。すると、紙切れの中の一枚が引《ひ》っかかった。 彼はそれを素早く引き上げると、手にとって書いてある文字を読み上げた。 「えー……ロックスターになりたい。はい、なりましょうなりましょう」 それは七夕の短冊だった。願いごとを書いた短冊は、時間をかけて風を泳ぎ、雲を伝い、天の川まで引き上げられるのだった。 ---------------------[End of Page 77]--------------------- 今は九月だから、約二ヶ月かけてここまでたどり着いたことになる。 「これね、願いことが空まで浮かんでくるんだよ。知ってた?」 「知らなかった。でも、昨日もやってたの見た」 「そうそう……」 パパさんは、昨日のことを思い出した。同じように窓枠に腰を掛け、天の川に釣竿を垂らしていた時のことだ。缶ビールも数本空け、いい気分でフィッシングを楽しんでいた。 そして釣り上げた一枚の願いごと。それを叶《かな》えようとした直後、仕事場のドアが開いたのである。パパさんは驚いて、奇跡の力の振《ふ》り分け方を間違ってしまった。 短冊の願いごとを叶えたものの、それを人間界に送る時点で失敗してしまったのだ。 本来、あるべき場所に送るものを、まったく別の場所、しかも彼自身どこに送ったのかわからなくなってしまうようなミスをしてしまった。 彼は突然の訪問者による失敗に戸惑ったが、その相手がメメでは怒るわけにもいかない。 しかし、願いごとを叶えることには確実に失敗していた。 少し悩んだ結果、彼のたどり着いた答えはこうだった。 「ま、いっか」 そんなわけで、その願いごとは少し妙なことになってしまった。 ああ、本来あるべき願いごとを待っていた人間よ、すまない。神様というのは、結構い ---------------------[End of Page 78]--------------------- い加減なのである。神様が「ま、いっか」と言えば、それは「ま、いっか」なのである。 「パパ、考え事?」 メメがパパさんを現実に引《ひ》き戻した。 「ううん、違うよ」 「もしかしてメメ、やっぱり悪い子だった?」 メメは窓枠から離れると、申し訳なさそうにモジモジとした。 「いいや、そんなことないよ。メメは、佐間太郎《さまたろう》とテンコちゃんのことを考えてくれる、とってもいい子だよ」 「えヘへ……」 メメは頬を赤らめた。こんなメメ、今後一生見ることがないかも知れない。レアだ。 パパさんは彼女を抱き上げると、頬にキスをした。 「なんだ、メメもだいぶ大きくなったな」 その言葉に、メメは少し怒ったように頬を膨らませる。 「当たり前よ。レディーだもん」 パパさんは小さなメメがそんなふうに言うのを聞いて、思わず吹き出してしまった。 吹き出していたのは、パパさんだけではなかった。 ---------------------[End of Page 79]--------------------- と言っても、こちらは例の蒸気である。 「ひーん!なんで怒るのー1なんで怒るのi!本当のこと言っただけなのにー!」 テンコは大声で喚《わめ》きながら、頭からプシュプシユと湯気を噴き出している。 まるで加湿器かなにかのような強烈な蒸気だ。心なしか、部屋の中がしっとりとしてくる。佐間太郎《さまたろう》は彼女を落ち着かせ、もう一度だけ話を最初から聞くことにした。 「いいかテンコ、最初からちゃんと話せよ?いいか。嘘《うそ》はつくなよ?」 「うん。つかない。嘘、つかない」 ひっくひくとしゃくりあげながら、テンコはもう一度その話を繰り返した。 「で、なんで俺《おれ》が父親だって思ったんだ?」 彼女は弱々しい湯気をプスン、と立ち昇らせてから言った。 「だって、あたし、佐間太郎としか……キッ、キッ、キスしたことないから……」 キスか……。確かに佐間太郎は以前、テンコとキスをしたことがある。 しかも、頬《ほお》だ。ほ、お。 なんでそれで子供ができるのであろうか。 「だってだって!メメちゃんがね、前ね、パパさんに聞いてたの。どうしたら子供ができるの?って。そしたら、男の子と女の子がキスしたら……コウノトリさんが運んでくるって……言ってたから……」 ---------------------[End of Page 80]--------------------- 佐間太郎はゲンナリとした顔でテンコの言葉を聞く。なるほど、そういうことか。そういうことなのか。こいつ、アホなのか、と。しかし、ここから先の話をまた聞くというのもかなりゲンナリだ。 「で、それから?」 「今日ね、朝、みんなが起きる前に新聞取《レ一》りに行こうと思ったら」 「ぶわっさぶわっさ、か?」 「そう、ぶわっさぶわっさって音がしたの。それで、門の外を見たら、赤ちゃんが……」 そう言ってテンコは、クローゼットの中に隠してあった揺りかごを取り出した。 確かにその揺りかごは、童話などでコウノトリが赤ん坊を運ぶ際に使うようなやつだった。木を編んで作ってある、サンドウィッチとか入れてピクニックとかにも使えるわねー、という感じのカゴである。 その中では生まれて間もない赤ちゃんが、すやすやと眠っている。 「うう……。パパ、責任取ってね」 テンコはどこまでも真剣である。それが逆に佐間太郎の苛立ちに追い討ちをかけた。 「取らねえよ1いいか、俺の話を聞けっ!」 「なに、パパ?」 「パパじゃねえ!いいかっ1まずその一!キスじゃ赤ちゃんはできません!」 ---------------------[End of Page 81]--------------------- 「がーん!」 「驚く時にがーんって言うな!お前は昭和のコメディ番組かー─」 「じやあどうすれば赤ちゃんができるの!」 それまで勢いよく怒鳴っていた佐間太郎《さまたろう》だが、テンコの質問によって動きがピタリと止まってしまう。数秒の沈黙。 「そしてその二1」 「なんで無視するの!どーすればできるか教えてよ!」 「その二っ1赤ちゃんはコウノトリさんが運んでくる、それ迷信1」 「だって羽の音が聞こえたんだもん1じゃあ、この赤ちゃんは誰《だれ》1誰の子よ1」 「まあ俺が科学的かつ神様的に分析するとだな。捨て子だ」 「がびーん1」 「だから、驚く時にがぴーんとか言うな!」 テンコは驚いていいんだか泣いていいんだか怒っていいんだかわからず、とりあえずウムムムと低い声で喩《うな》った。 「あの赤ちゃんはなんだって言うのよ」 「だから、捨て子だって言ってんだろ?」 テンコは揺りかごからタオルに包まれた赤ちゃんを取《と》り出すと、宝物を扱うように慎重《しんらよう》 ---------------------[End of Page 82]--------------------- に抱えた。 「だって、こんなにかわいいんだより・捨てると思う?」 佐間太郎は目の前に突き出された赤ちゃんをマジマジと見つめる。 かわいい?これが、かわいい?口の周りはヨダレだらけだし、妙に汗の臭いがする。 そもそも、顔が猿にそっくりだ。頭に申し訳程度に生えた髪の毛は、ワカメみたいに見えた。 「全然かわいくねえし」 「なーんで!かわいいじゃん!きっとこの子、美人になるよ!おめめなんてクリクりしてるし、鼻もスゥーッとしてるし、それに、なんたって愛嬌《あいきよう》がある!」 テンコは必死になって赤ちゃんのかわいさをアピールする。しかし、どこからどう見ても、ただの猿っこにしか見えない。 「かわいいかあ〜?つうかこれ、女の子なのか?」 「そうだよ!そうです!女の子です!おしめ取り替えたから知ってます」 彼女は得意げになって言った。テンコの胸の中で、女の子らしい(まだ佐間太郎には信用できないが)赤ちゃんが気持ちよさそうに眠っている。 「おしめって、うちにそんなもんあんのかよ」 「カゴに入ってたもん。おしめが十枚ぐらい」 ---------------------[End of Page 83]--------------------- 「完全に捨て子じゃねえか」 「違うもん!違います!捨ててない1」 どうもテンコは赤ちゃんに情が移ってしまったようで、なかなか現実を認めようとしない。この平成の世の中に、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるなんて聞いたことがないというのに。 「とにかくだな、それは母親の元に返さねばならぬ」 「あたしがママだもん」 「俺は父親じゃないそ」 「う……。じやあどうするの?」 「とりあえず警察に引《ひ》き渡す。そんで母親を探してもらう」 「もし見つからなかったらどうなるの?」 テンコはそれが自分の所有物であるかのように、赤ちゃんをギュッと抱きしめた。 「見つからなかったら、施設だな、施設。親のいない子供の入るとこ」 その言葉を聞いた瞬間、テンコは頭からプシューと湯気を出した。今日はよく沸騰《ふつとう》する女である。 「ダメだもん!そんなのダメ1かわいそう1だったらあたしが育てます1」 「親が見つかるかもしんないだろ1」 ---------------------[End of Page 84]--------------------- 「でも見つからなかったら一人ぼっちでしょ?そんなのかわいそうだもん1」 彼女は完全に子供を手放す気はないらしい。佐間太郎《さまたろう》はどうしたものかと頭を抱えた。 「なんかさ、あれないの、ほら、手がかりになるようなもの」 「手がかり?なにそれ?」 彼は揺りかごを手に取《レー》ると、その中に母親の残した物がないかと探す。もし本当に捨て子だとしたら、手紙のひとつも残してあるかも知れない。 それにしても、どうしてわざわざ人のうちの前に捨てていくのだろうか……。 佐間太郎がゴソゴソとカゴを漁《あさ》っている姿を、テンコは心配そうに見ている。 彼女にとっては、なにも出てこない方がありがたいのだ。もし母親の存在がはっきりしたら、その人物に返せと佐間太郎は言い出すだろう。 「こんなにかわいい子を捨てるような人に返したくない……」 赤ちゃんの頬に手を当て、その体温を確かめる。まるで熱でもあるように顔が熱い。 子供は体温が高いと聞いたことがあるが、この子もそうなのだろうか。 それにしても……。 「佐間太郎、なんかね、この子、さっきより髪の毛が増えたかも」 「は?育ち盛りなんじゃないか?」 佐間太郎はカゴに敷かれていたタオルを引っ張り出し、底の方まで念入りに探索してい ---------------------[End of Page 85]--------------------- る。 「育ち盛りか。そうだよね、赤ちゃんだもんね……」 「あった1」 カゴの中からなにかを見つけたようで、佐間太郎《さまたろう》は大きな声を出した。その声に驚き、赤ちゃんはビクッと体を震《ふる》わせた。 「ちょっと佐間太郎、大きな声出さないでよね!赤ちゃんが起きちゃったでしょ1」 「それどこじゃねえよ。これ、見てみ」 彼は一枚の小さな紙切れを取《レ,》り出した。それは長方形をした、ピンク色の紙だった。 「なにこれ?手紙つ・」 裏返しにすると、そこにはボールペンのような物で文字が書いてあった。 「また会えるといいな。愛《あい》」 テンコは書いてある文字を、そのまま読み上げる。とてもシンプルな文章だ。子供を捨てる母親が書く手紙とは思えない。 「なにこれ?手紙っていうより、お願いごとみたいじゃない?」 「わからん。なにかの事情で一時的に離れなくちゃいけないのかも知れないし。愛ってこれ、名前かも知れないそ」 佐間太郎とテンコは、揃《そろ》って赤ちゃんの顔を見た。赤ちゃんは不思議そうな表情をして、 ---------------------[End of Page 86]--------------------- 二人を見上げている。テンコは優しい口訓で聞いてみる。 「あなた、愛ちゃんって言うの?」 「バーカ。まだ言葉なんてわかんねえだろ」 「なに!わかるかも知れないでしょ!頭のいい子かも知れないし1」 まったく、親でもないのに親バカでは、ただのバカである。佐間太郎は、やってられんよとため息をついた。その時、テンコの胸に抱かれていた赤ちゃんが、舌足らずな調子で言葉を発した。 「あー!あー!あいちゃん1」 まだ言葉など発せないと思っていた二人は、驚いて顔を見合わせる。 「わかるの?あたしの言ってることわかるの?」 「あi!あi!あi!」 しかし、赤ちゃんは言葉にならない声を発するだけで、それ以上のことはなにも言わなかった。 「わ、わかるわけねえよ。まだこんな小さいんだぞ?何歳から話すかなんて知らないけど、たぶん、さっきのは、偶然だよ」 佐間太郎は赤ちゃんから視線を外し、もう一度カゴを探る。すると、中から一枚の写真が出てきた。驚いて見てみると、その中には…人の少女が写っていた。 ---------------------[End of Page 87]--------------------- たぶん中学生ぐらいだろう。水玉のワンピ:スを着て、室内に座っている。 屈託のない笑顔で、胸には人形が抱きかかえられている。 人形の大きさは、マクラぐらいだろうか。比較的、大きなものだ。 その人形の顔は、写真の女の子にとてもよく似ていた。まるで、その女の子をモデルに作ったような人形だった。 「な、なんだこれ?誰《だれ》だ?これ、どういうことだ?なあ、テンコ」 「うるさいの!そんなことないもん!偶然じゃないもん!この子は、ちゃんと言えばわかるんだもん。愛《あい》ちゃん、ママのことわかる?」 「いや、そうじゃなくてさ、これ……」 「ほら、愛ちゃん頑張って1ママよ!ママ1わかるP」 佐間太郎《さまたろう》に対抗心を燃やすように、テンコは赤ちゃんに言葉を教えようとする。 「ま・…:ままあ?」 彼女が何度か繰り返すと、赤ちゃんはその言葉をそのまま返してきた。 「わ1やっぱり1で、こっちにいるのがパパね」 「待て!誰がパパだ!」 「ぱぱあ。ぱばつ1ぱぱー1」 赤ちゃんは佐間太郎の顔を見て、嬉《うれ》しそうに笑った。そして、佐間太郎を掴《っか》もうと紅葉《もみじ》 ---------------------[End of Page 88]--------------------- のように小さな手を必死で伸ばす。 「ほら、パパ。手、握ってあげて?」 テンコに言われ、彼は恐る恐る手を出す。汗で湿った小さな手が、佐間太郎の指を握る。 赤ちゃんは指が触れた瞬間に、「ぱぱーあ」ともう一度だけ言って笑顔を作った。 それを見た時、佐間太郎は不覚にもこう思ってしまったのだった。 「か、かわいいじゃねえか……」 「ゴハンですよ:1ママさん特製のすき焼きですよー!美味しいですよ:1お肉しか入ってませんよー!さあさあ!みんな食べてくだっさーい!」 神様一家の神山《かみやま》家にも当然夕食の時間はある。だいたいが夜の七時頃《ごろ》と決まっているが、今日はママさんが支度をしたので一時間ほど遅くなってしまったようだ。 本当に肉しか入っていないすき焼きを前に、パパさん以外の全員が食卓に集う。 「さあ佐間太郎ちゃん、いっぱい食べて元気になって、立派な神様になるんですよお〜」 ゴキゲンなママさんの横で、美佐《みさ》がテンコをチラチラと横目で見ている。 彼女はようやく部屋から出てきたと思ったら、今度は少し落ち着きがないようだ。それに、今度は佐間太郎までそわそわしている。もしかしたら、二人の仲になにかあったのかも知れない。 ---------------------[End of Page 89]--------------------- 「ねえねえ佐間ちん。どうかしたの?」 美佐《みさ》は軽くかまをかけてみたつもりだった。 しかし、予想以上の反応が返ってきてしまう。 「な、な、な、なななな、なんでもないよ!どうしたんだい姉さん、おっかしなやつだなあ!なあ、テンコ!」 「う、うん!そうだよ、美佐さん、佐間太郎《さまたろう》くんはどうもしてないよ!」 あきらかにどうかした様子の二人に、美佐もママさんも目を丸くした。メメだけが鍋《なべ》からハシで肉をつまみ、小さく分けながら食べている。 「あ……その……佐間太郎ちゃん?それにテンコちゃんも……どうかしたの?」 思わず質問してしまうママさんに、テンコは素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で答えた。 「え?佐間太郎、テンコってばどうかしてる?テンコってば変?」 「ううん、テンコは変じゃないよ。じゃあテンコ、佐間太郎は変?」 「ううん、もちろん佐間太郎だって変じゃないよ」 「そうだよね、僕たち二人は変じゃないよね。あっはっは。ところで今日のゴハンは部屋で食べます。持っていきます」 「あたしも部屋で食べます。持っていきます」 二人はそう言うと、食卓に並べられた食事を抱え、そのまま二階へと逃げていってしま ---------------------[End of Page 90]--------------------- った。ポカンとした顔でその光景を見ているママさんと美佐。その横でおかわりをするために、炊飯《すいはん》ジャーからゴハンをペチペチとよそっているメメ。 「ちょっと美佐ちゃん。あの二人どうしたの?テンコちゃん、部屋から出てきたと思ったら、おかしくなっちゃって。佐間太郎ちゃんまであんなのだし!怖い!これが思春期ってやつね1これが反抗期ってやつね1」 ママさんは涙を流しながら、美佐にもたれかかる。 「それに、せっかく佐間太郎ちゃんに喜んでもらおうと思って裸エプロンだったのに1そのことにさえ一切触れてくれないなんて!ママさんはピエロ?ピエロなのP」 そう、ママさんの姿は見事なまでに裸エプロンだったのだ。もちろん裸エプロンとは、裸の上にエプロンだけをつけただけという、世の中の男性のほとんどが喜ぶ素敵な代物《しろもの》である。だが、佐間太郎はそれに喜ぶでもなく怒るでもなく、ただ無視をして部屋に戻っていってしまった。それどころか、あのテンコでさえノーコメントなのである。 「わーん!悪ふざけし過ぎて、テンコちゃんに嫌われちゃったのかしら!ママさん、結構テンコちゃんに怒られるの好きだったのに!イタズラして叱《しか》られるの嫌いじゃなかったのにi!」 「ちょっと、落ち着いてよ。別に嫌われてなんてないってば」 「本当に?美佐ちゃん、信じていいの、あなたの言葉を」 ---------------------[End of Page 91]--------------------- ママさんは瞳《ひとみ》をウルウルとさせ、美佐《みさ》を見つめる。 「う、うん……」 さすがの彼女も、裸エプロンの母親に泣きつかれては困ってしまう。なんとか彼女を泣きやませると、とりあえず三人で食事を取《レ 》り始めた。 しかし、メメ以外の二人はどうしても佐間太郎《さまたろう》とテンコのことが気になるみたいだ。 食事をしながらも、話題は二人のことになってしまう。 「もぐもぐ。ね、凡美佐ちゃん、あの二人、おかしいわよねえ。おかしかったわよねえ?」 「もぐもぐ。うん、おかしかった。今まで部屋でゴハン食べたことなかったのに。佐間太郎はまだわかるけどさ。あいつ、すぐイジけるから。でも、テンコまでそうとなると、やっぱり変よねえ」 肉をもぐもぐと頬張《ほおば》る二人の頭の上には大きな「?」マークが浮かんでいた。 ちなみにこれは比喩《ひゆ》などではなく、本当に「?」マークがプカプカと浮かんでいるのである。これも一種の女神の吐息のような奇跡なのだろうが、使い道はよくわからない。 神様家族にはなにかと不可解なことが多いのだ。仕方ない、なにしろ女神なのだ。なにがあってもおかしくないということか。それで納得してください。 「二人で一緒に食べてたりしてるってことは」 それまで黙《だ蓼》って肉焼き(もうこれはすき焼きではない)を食べていたメメが、不意に口 ---------------------[End of Page 92]--------------------- を開いた。その瞬間、ママさんと美佐の頭の上に浮かんでいた「?」マークは「1」へと変化する。 「仲良しだったりして」 今度は「””」へと変化する浮遊物体。 「ごちそうさま」 メメは早々と食事を終えると、イスから飛び下りて二階の部屋へと行ってしまった。 残されたのはママさんと美佐と、卓上に乗せられた小型のコンロだけである。 グツグツと肉焼きを煮込む音が、寂《さび》しげに食卓に響き渡っていた。 時計の針の音が、妙に大きくカチカチと聞こえてくる。次第にママさんの瞳が潤《うる》んできた。唇が震《ふる》え、茶碗《ちゃわん》を持つ手にプルプルと力が入る。美佐は「またくる……」と嫌な予感を感じた。ママさんは、持っていた茶碗とハシをテーブルの上に置くと、大きく深呼吸をしてから、今までで一番大きな声で叫《さけ》んだ。 「わーん!テンコに佐間太郎ちゃんを取られた11ー己 「ぎゃi1ちょっと、口から肉を撤《ま》き散らせながら近寄ってこないでー!」 「美佐ちゃんにも嫌われたIH」 「嫌ってないからiーー 肉をー!撒き散らさーないーでーえ」 賑《にぎ》やかな食卓って、いいですよね。 ---------------------[End of Page 93]--------------------- その頃《ころ》、テンコの部屋では食卓から逃げ出してきた二人が赤ちゃんをあやしていた。 「なあテンコ、下からなんか泣き声みたいなの聞こえないか?」 「え?そう?わかんない。気のせいじゃない?」 「気のせいか……」 テンコはすき焼きをハシで小さく切り刻み、愛《あい》に与えていた。最初は離乳食でないと食べないかと思ったが、彼女はそれをモクモクと食べ、さらにおかわりまでねだった。 「こいつ、なんでも食うな……」 「うん。すごいよね。言葉もすぐ覚えたし、ゴハンも食べられるし。きっと将来はアメリカ人パイロットね。うふふっ」 「いや、どう見ても日本人だから。アメリカ人パイロットにはなれないから」 うっとりとした顔で食事を与えるテンコ。しかし、佐間太郎《さまたろう》はこの赤ちゃんをいつかは親の元に返さなくてはならないだろうと考えていた。 「ぱぱーおかーわーりー」 愛は、佐間太郎に向かってそう言った。テンコはクスッと小さく笑い、持っていた茶碗《らやわん》を彼に渡す。 「はいパパ、お代わりだって」 ---------------------[End of Page 94]--------------------- 「お、おう……」 佐間太郎はゴハンをほんの少しだけハシに乗せ、愛の口に運んだ。彼女はそれもペロリと平らげ、満足そうにゲップをした。 「はあ〜。な、なんか赤ちゃんにゴハン上げるのって緊張するよな……」 肩をポキポキと鳴らしながら言う彼に、テンコは笑って答える。 「なに言ってんの。佐間太郎だっていつかはお父さんになるんでしょう?そしたら毎日こんな調子なんだよ?今から弱音《よわね》吐いてどうすんの」 「だって、こういうのは奥さんがやるもんだうつ・俺は子供の面倒なんて見ないし」 「なにそれ!女性差別じゃないの!あたしだけで子育てなんて大変じゃない1ちゃんと手伝ってもらいますからね1」 頭から湯気を小さくプシュプシュ立てるテンコに、佐間太郎は遠慮がちに言った。 「あの……誰《だれ》も、お前の話なんてしてないけど……。俺の、奥さん、の、話ね?」 「え……」 テンコの動きが一瞬止まると、今度は天井に届きそうなぐらい大きな湯気をポフーと出した。それと同時に顔も赤くなる。彼女が蒸気機関車だったら、ものすごい勢いで走り出しているだろう。 「ばっ!だから!それは、その1もしあたしが、ね、もしよ!もしの話よ1も ---------------------[End of Page 95]--------------------- し、あんたの、奥さんだったらっていう架空の……ふいくしょんの……」 と言っている途中で恥ずかしくなったのだろう。段々と声が小さくなり、最後には聞こえなくなってしまった。 「とにかくっ!愛《あい》ちゃんが元気になるまで育てますからね」 「元気じゃねえかよ、すごく」 「弱ってるの!捨てられたばっかりだから弱ってるの1」 今度はなぜか怒り始めたテンコに、佐間太郎《さまたろう》はなんと言っていいのかわからなかった。 これが乙女《おとめ》心というやつだろうか。うーむ、難しい。 それにしても、愛の相手をしている時のテンコは、いつもと違ってとても優しい顔になる。まるで本当に自分の子供を相手にしているようだ。 佐間太郎は自分の分のゴハンを食べながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。 「はい愛ちゃん、おっぱい飲みましょうね」 彼女の口から出た意外な言葉に、佐間太郎は口の中の物を全《ずべ》て吐き出してしまった。 「ブハァー!」 「ぎゃー1なにゴハン吹き出してんのよ!汚いわね1」 「お前、お、お、おっぱいって、それ、なんだよ1」 「牛乳のことでしょ1お母さん気分を味わってんじゃない1そ、そんな反応しないで ---------------------[End of Page 96]--------------------- よ:・…」 またしても、自分の言った言葉に恥ずかしくなってしまったようだ。落ち着いて考えれば、同世代の男の子の前で「おっぱい」などという言葉を使うのは非常に恥ずかしいことである。テンコは恥ずかしさをごまかすために、またしても彼に八つ当たりをする。 「ほら、早く出してよ、牛乳!」 「え?俺《おれ》、持ってきてないって」 「じゃあ今すぐ持ってくる!はい、ダッシュ1いーち、にー、さーん、しー。あ、十秒以内じゃないとパンチね。ごー、ろーく」 「なんだそれ!無理だうがよ、ちくしょう!」 などと言いながら、急いで立ち上がって部屋を出ようとする佐間太郎。尻《しり》に敷かれているとは、まさにこのことである。 「一分だ!一分まで延ばしてくれ!そしたら持ってくるからH」 そう言いながら部屋のドアを勢いよく押し開けると、なにかにぶつかる音がバコンとした。驚いて廊下を見れば、そこには鼻の頭を赤くした美佐《みさ》がタンクトップに下着だけといういつものスタイルで倒れている。 「うわ!姉ちゃん!」 「いたたたた……。でも、見ちゃつた……」 ---------------------[End of Page 97]--------------------- 美佐《み尾・》は、ニヤッと笑った。 午後九時。消灯時間にはまだ早い、病院の一室。 その部屋の明かりだけが早々に消えていた。進一《しんいち》の入院しているような大部屋ではなく、ベッドがひとつしかない個室だ。 廊下に通じるドアは開いたままになっているが、誰《だれ》も閉めようとはしない。 薄暗い室内には、車椅子《くるまいす》に乗った少女が一人、窓の外を眺めている。 彼女は、昼間に佐間太郎《さまたろう》と進一が中庭で見かけた少女である。膝《ひざ》の上にマクラを乗せている女の子なんて、滅多にいるものではない。顔色こそ悪そうに見えるが、体のどこかに怪我《けが》を負っているような様子はなかった。 「ねえ、ちょっといい?」 不意の声に、少女はドアの方を振《ふ》り返る。そこには、松葉杖《まつばづえ》を突いた進一が立っていた。 不審《ふしん》者に怯《おび》えた彼女は、ベッドに近づきナースコールのボタンを手に取《と》る。 「待って1俺、怪しいもんじゃないからさ。その、怖がらなくていいよ」 ニヒヒヒと、だらしなく笑う進一。しかし少女は険《けわ》しい表情で彼のことを見ている。手にはナースコールのボタンが握られており、まだそれを手放す気はないようだ。 「あっちゃ……。信用されてないみたいだね。まあいいや、聞いてよ。俺の名前は霧島《ロ りしま》進 ---------------------[End of Page 98]--------------------- 一。なんつうか、木にね、小鳥が住めるように巣箱を作ろうと思ったら落ちぢゃってね。 ちょっとだけここにお世話になることになって」 進一はほんの少しだけ嘘《うそ》を織り交ぜながら、自分は危険な人間でないことをアピールしようとする。 「その、君のこと、廊下とか中庭で見かけて、気になっちゃってさ。だって、すっげえカワイイんだもん。こりゃお友達になりたいなーって思ってさ。それで、挨拶《あいさつ》に来たってわけ。ちょっと時間が遅くなっちゃったけどさ。ごめんね」 少女は彼の言葉を無表情で聞いていたが、「友達」と進一が言った時だけピクッと体を震《ふる》わせた。 「……友達?」 それまで黙《だま》っていた彼女は、ようやく言葉を発した。それは風の吹く場所に置いてあるロウソクのように、とても頼りない、今にでも消えてしまいそうな声だった。 それでも彼女の声を聞けたことが嬉《うれ》しくなり、進一は一気にまくし立てる。 「そうそう!友達!俺、君と友達になりたくて!名前、なんて言うのり─」 「友達」 「うん、だからお友達になりたいなーって。名前、教えてくれない?」 「友達なんて、いらない」 ---------------------[End of Page 99]--------------------- 「え?」 少女は握っていたナースコールのボタンを押した。ナースセンターにそのコールは届き、廊下から看護婦が早足で近づいてくるのがわかった。 「うわ、やば!怒ったらごめんね1その、悪気はないんだ1また明日ね!」 進一《しんいら》は看護婦たちが来る前に、器用に松葉杖《まつばづえ》を使って走り出した。 彼と入れ違いになるように、年配の看護婦が部屋の中にやってくる。看護婦は遠慮なしに部屋の電気を点けると、不機嫌な調子で彼女に問いかけた。 「どうしたの?なにかあったの?」 しかし、少女は黙《だま》ったままでなにも答えない。看護婦は彼女が握りしめたままのボタンを離させると、それをベッドの上に置いた。 「用がない時は押さないでって言ったでしょう?」 少しキツい調子で少女を責める。それでも彼女は、返事もせず傭《うつむ》いたままだ。 「……返事ぐらいしなさいよね」 看護婦は捨てゼリフのように眩《つぶや》きながら、病室から出ていってしまった。 誰《だれ》もいなくなった、無機質な光が照らす部屋の中で、少女は少しだけ泣いた。 一方神山《かみやま》家では、テンコの部屋の前で美佐《みさ》がニヤニヤと笑っていた。 ---------------------[End of Page 100]--------------------- 「まーまー、美佐さん、誰にも言わないから。黙っておいてあげるから。まあ、罪にならない程度に仲良くやって」 彼女は片手を挙げ、これ以上ないぐらいのいやらしい笑顔で部屋に消えていった。まったく、なにが言いたいのだろうか。 夜の十時頃《ごろ》になると、愛《あい》はぐずりだした。おしめが汚れているわけでも、お腹が空いたわけでもないみたいだ。となると、彼女は眠りたがっているのだろう。 佐間太郎《さまたろう》は愛を置いてテンコの部屋から出ようとしたが、テンコはそれを止めた。 「ちょっと、佐間太郎、一緒に寝てあげてよ」 「なんで俺《おれ》なんだよ!お前が面倒見ろ」 「あたしはちょっとダメなんです。諸事情があって、一緒に眠ってあげられないのです」 そう言って彼女はベッドを見つめた。まだ誰にもバレていないことだが、彼女の寝相は猛烈に悪いのである。ベッドで眠っていたはずが、気がつくと部屋の隅っこで倒れていたこともある。ある日は、珍しくベッドの上で眠っていたかと思うと、部屋の中の物が散乱していた。きっと、床中を転げまわった末に、またベッドに戻ってきたのだろう。 さらに困ったことに、テンコは自分の部屋のベッドで寝る時だけ寝相が悪くなるのだ。 佐間太郎と一緒に泊まった幼稚園のお泊り会の時は、とても行儀よく朝を迎えることができた。きっと、自分一人しかいないという安心感から気が緩《ゆる》んでしまうのだろう。 ---------------------[End of Page 101]--------------------- 「というわけで、ダメです」 「どういうわけ?そもそも、赤ちゃんなんだから一緒に寝なくてもいいだろ」 「ダーメっ!ちゃんと一緒に寝てあげるの1だって、捨てられてたんだよ?そんな日ぐらい、一緒に寝てあげてもいいじゃない。また一人にすることないじゃない!」 そう言ってテンコは赤ちゃんを佐間太郎《さまたろう》に預けると、誰《だれ》もいないことを入念に確認してから廊下へと追い出した。 廊下に出されてしまっては、家族の誰かに見つかる可能性が高い。既《すで》に美佐《みさ》にだってバレているのだ。仕方なく彼は自室へと愛《あい》を連れていった。 最初は勉強机の上に揺りかごを置き、そのまま眠らせようとした。 しかし、テンコの言った言葉が気になり、なかなか寝付けなくなってしまった。 「確かに、今日ぐらい一緒に寝てもいいかな……」 佐間太郎は既に半分眠っている愛を抱き上げ、自分のベッドの上に寝かせた。 その上にタオルケットを掛け、手を握り締めて眠った。 まったく、ややこしいことになってしまった。彼は顔をしかめて、ウムムと喰《うな》った。 ---------------------[End of Page 102]--------------------- 三章発育少女 「パパ……だっこして……」 耳元で小さく声が聞こえる。止まる寸前のオルゴ!ルみたいな音色《ねいろ》だった。 まだ夢の中にいた佐間太郎は、無意識に声のする方に手を伸ばす。 柔らかい感触が、彼の手の中で寂《さび》しそうに動いた。 「パパ、もっと、ギュッってしてよ……」 佐間太郎は、ベッドの中で寝返りをうった。声の主は、彼の胸の上に顔を乗せていたようで、抱きかかえられるような姿勢になる。 「うん、これ、あんしんする……」 彼は夢の中に体を半分だけ沈ませつつ、聞こえてくる声に耳を傾けた。 「パパ、つかれちゃったの?」 「いや、そうじゃない。だから心配しなくていいの」 「ママ、よんでくる?」 「大丈夫だってば。お前は大人しく寝て」 ろ。最後に、「ろ」と言いたかった。しかし、完全に目が覚めた。 ---------------------[End of Page 103]--------------------- 今、俺《おれ》は誰《だれ》と会話してるのだ?さっきから自分の手を握っているのは、誰だ? 「ぎゃあああああああ!」 「わああああああああああ!」 二人はほぼ同時に叫《さけ》び声を上げた。その声を聞いて、驚いたテンコがタシタシと廊下を素足で走ってくる。 「佐間太郎《さまたろう》!愛《あい》ちゃんになんかあったの1」 テンコはドアを開けた瞬間、なにかあったことを存分に思い知らされた。 「……誰?」 彼女の指は、佐間太郎と一緒にベッドで寝ている幼稚園児ぐらいの女の子に向けられる。 しかも彼女は、体にタオルケットを巻きつけただけの姿で、洋服すら着ていない。 佐間太郎はと言えば、突然現れた目の前の少女に驚き、声すら出すことができない。 目をカッと見開き、彼女のことを真《ま》っ直《す》ぐに見つめている。 少女も同様に、驚いた顔のまま佐間太郎を見つめている。まるで、ハ:ドコア.ニラメッコだ。テンコは部屋の中を見回し、昨日の赤ちゃんがいないことに気づいた。 「ちょっと、愛ちゃんがいないじゃない?愛ちゃん、どこに行ったのよ」 すると、佐間太郎を見ていた少女がゆっくりとテンコの方を向いた。 「ママ……」 ---------------------[End of Page 104]--------------------- 女の子は、小さな声で眩《つぶや》いた。 テンコは、カクンと大きく口を開けた。 「愛ちゃん?」 「ママ!」 少女は立ち上がると、テンコに向かって走り出し、そのまま抱きついた。もちろん、少女は全裸である。 「パパがこわいのー!きゅうにおおきなこえ、だすのー1」 テンコは自分に抱きつく女の子に、なんと答えればいいのかわからなかった。 「ちょっとあんたたち、うるさいわ……」 よ、だ。「よ」と言いたかったに違いない。上はキャミソール、下は例によって下着だけという姿で美佐《みさ》が現れた。普段も寝る時も、彼女の格好はほとんど変わらないらしい。 ともかく、美佐は裸の幼女とテンコが抱きついているのを目撃し、思い切り目を見開いた。悲鳴を上げようとした美佐だったが、いつの間にか起き上がっていた佐間太郎が彼女の口を手で塞《ふさ》いだ。そして、部屋に引《ひ》き摺《ず》り込むと、急いでドアを閉める。 「むごこごんこごこおおおおお!」 美佐の悲鳴は、彼の手の中で台風のように吹き荒れた。わかる、その気持ちは非常にわかる。佐間太郎だって、同じことをさっきしたばかりなのだ。 ---------------------[End of Page 105]--------------------- 愛《あい》は不安そうな顔で三人を見渡す。テンコはそんな彼女の心情を察し、優しく抱きしめてやる。 「大丈夫よ、パパってばちょっとだけ寝ぼけてるだけだから」 「う、うん……。そのおねえちゃんは、だれ?」 今度は佐間太郎《さまたろう》がフォローに回る。もちろん、テンコと同じように優しげな口調だ。 「この人はね、パパのお姉ちゃんの、美佐《みさ》さん。はい、ご挨拶《あいさつ》」 少し安心したのか、愛はテンコから離れ(た瞬間、大事な二箇所《かしよ》はテンコが手でガードした。なにしろ、彼女は裸なのだ)、美佐に向かって大きく頭を下げる。 「はじめまして、あいです。よろしくおねがいしますっ」 頭を下げると、小さなお尻《し鋤》がプ─イッと上がる。美佐は自分の口を押さえつけたままの佐間太郎の手をゆっくりとどけると、呆然《ぼうぜん》としつつ挨拶をした。 「美佐……です。よろしく……」 愛は「えへへ」と小さく首を傾けて笑ったが、また不安そうな顔をしてテンコの方を見た。 「どうしたの愛ちゃん、もう怖いことないよ?」 「ううん、ちがうの。ママ、あのね……」 何度か言い出したいが言い出せない素振《そぶ》りを見せた後に、ついにはギュッと目を閉じて ---------------------[End of Page 106]--------------------- 白状した。 「パパのベッドで、おねしょしちゃったの」 テンコはベッドの方を見る。確かに、先日彼女が洗濯したばかりのシーツの上に大きなシミがついていた。 「ごめんなさいっ」 「ううんいいのよ、じゃあお風呂《ふろ》入ろっか?」 「うん!」 愛《あい》がお風呂に入っている間、神山《かみやま》家の食卓では三人により緊急会議が行われた。 三人は頭の上に「?」を出しながら(実際に出しているのは美佐《みさ》だけだったが)、人生で一番「う」と「む」と言ったのではないかと思うほど「うむむ」と苦悩した。 「はい1パパ1質問があります!」 「はい、そこのママ」 「あれ、愛ちゃんですよね?」 「そのようです」 「なんで大きくなってるのでしょうか?」 「……さあ?」 ---------------------[End of Page 107]--------------------- そしてまた、これでは今年の日本の冬が大規模な「う」と「む」不足になってしまうのではないかと心配してしまうほど苦悩する。 「はい1美佐も意見があります1」 「はい、美佐さん」 「パパこと佐間太郎《さまたろう》は、なんかしましたか?」 「してません」 『うむむ』 三人は声を揃《そろ》えて言った。 ママさんはまだ寝室で寝ているらしい。もし起きてきたら「うちの佐間太郎ちゃんが捕まるようなことしてるー!」と大げさに騒ぐだろう。散々悩んでいた美佐だったが、ついにはプチッという音と共に投げやりな態度になった。 「あーもー!わかんない!昨日見た時は、赤ん坊だったじゃないの!それなのに、なんで幼稚園児まで成長してんのよ!佐間太郎、テンコ1責任取りなさい!」 どう責任を取ればいいのかわからないが、ひとまず彼女は二人に全《すべ》ての責任を押し付けたのだ。 「美佐さん〜。そんなこと言ってもですね、あたしにもわからないんですけど」 「わからなくてもわかれ1わかってくれろ1」 ---------------------[End of Page 108]--------------------- 「そんなこと言われても!」 無理やりな押し付けにテンコは戸惑うが、そもそも家の前に置き去りにされた愛《あい》を拾ってきたのは彼女である。確かに自分に責任があると言われれば反論できない。 「そうだ、テンコが悪い」 この際だと言わんばかりに佐間太郎《さまたろう》が同調する。 「酷《ひど》い!パパまで!」 「パパじゃない1俺は断じてパパなんかじゃないからな1」 「わーん、こんな旦那《だんな》、別れてやるう〜」 「結婚してねえだうがよ!」 「どっちにしろ、あんたたち二人で解決しなさい1人生は不思議でいっぱい!フスィギi。んじゃ、あたしは二度寝しますから邪魔しないようにね」 美佐《みさ》は反論すらできない素早さで立ち上がると、ダシダシと音を立てながら部屋へと戻っていってしまった。残された二人は、もうあの言葉を言うしかない。みなさん、おわかりですね。それではご一緒に。 「うむむむむむ』 考えても無駄なことはわかっているが、今は考えるしかないのだ。なにか良いアイデアが浮かばないかと頭をひねっていると、バスルームの方から声が聞こえた。 ---------------------[End of Page 109]--------------------- 「ババー!きてー1」 しかし二人は考え事でそれどころではない。愛の呼びかけを無視して、うむむと捻《うな》る。 「パパー、きてってばあー」 いやいや、今はそんな場合じゃないんだってば。今後のことに関して考える時間なのである。 「もー、パパってぱi」 廊下に響き渡る幼女の声。なんとも、どうしたもんだか、である。仕方なく佐間太郎は食卓で「考える人」のポーズを取《レロ》ったまま、大声で返事をした。 「あのなi、パパは今忙しいんだよー。後にしてくれー」 「えー、パパきてよー」 「ダメだー、忙しいー」 「佐間太郎ちゃーん、なんか、声聞こえない?」 二人が顔を上げると、そこにはママさんが同じく「考える人」のポーズで立っていた。 氷のように固まる二人。頭から「?」を出すママさん。テンコは佐間太郎に向かって、小さなイメージを飛ばす。 「佐間太郎、やばいって。バレるって』 「んなことわかってるよ1』 ---------------------[End of Page 110]--------------------- ママさんに内緒でやりとりされる意思は、冷蔵庫のブブブブブというモーター音に消えてしまうような小さな声で聞こえてくる。 「おっかしいわねー。なんだかね、小さな女の子の声がね。テレビかしら?」 「パパー、はやくー」 その時、あきらかに言い逃れできない大きさで、愛《あい》の声が廊下に響いた。ママさんは振《ふ》り返り、ポツリと眩《つぶや》く。 「あれ?今、お風呂《ふろ》から……」 「あっれー1なんか暑くない佐間太郎《さまたろう》ロ」 「うーん!そうだーなi、暑いなテンコ1」 いきなり大声で会話し始める二人。ママさんは、何事かと二人を見る。 「ひと、ひとっ、ひとっぶろ、あびるかなi!」 「そうだよi、浴びちゃいなよ、ひとっぶろi!」 「じゃあ俺《おれ》、お風呂入ってくるー1」 佐間太郎はそう言うと、勢いよく席を立ちバスルームへと向かった。 取《レロ》り残されたテンコは、「ね・凡ママさん、疲れすぎると幻聴が聞こえるんですってよ」 などとどうしようもない言い訳をする。 「テンコちゃん、なにかママさんに隠してるんでしょ?」 ---------------------[End of Page 111]--------------------- 「ママさん、幻聴がね、聞こえるんですって。主に幼女の」 「そんな話聞いたことありません1またそうやってママさんを騙《だま》そうとして」 「幻聴はね、お肌の敵なんですって」 「本当にp…ママさん、寝る!二度寝でも三度寝でも何度でもする!」 ママさんはそう言うと、小走りで寝室へと戻っていった。テンコは疲れ果てた様子で食卓に突っ伏す。 「あ〜。もう、なんなのよこれ……」 病室のベッドの上での朝食を終えると、進一《しんいら》は早速あの女の子の部屋へ向かおうと松葉杖《まつばづえ》を取り出す。 「お兄ちゃん、精が出るねえ。今日もナンパかい?」 同室のおじさんが声をかけてくる。この病室は五人部屋で、その全員が彼よりも二十歳ほど年の離れたおじさんだ。 「でもよう、あの娘《こ》はやめときなよ。苦労するぜ」 「そうそう、一言も喋《しやべ》りゃしねえ。看護婦さんたちにも評判悪いぜ」 入れ替わり立ち替わり、おじさんたちが彼にとってネガティブなことばかりを言う。 「平気ですよ。俺、そういうの慣れてるから。女はね、こう、ガツンといかないとダメな ---------------------[End of Page 112]--------------------- んですよ。むしろ、そういうことされると惚《ま》れます」 おじさんたちは進一《しんいら》の言葉を聞いて、ガハハハと笑った。彼らは知らないが、自宅での美佐《みさ》の笑い方にそっくりだった。 「じゃ俺、行くんで」 そう言うと、進一は松葉杖《まつばづえ》を使って歩き出す。 どうしてかわからないが、彼女の評判はすこぶるよろしくない。愛想《あいそ》が悪いだの、お高く止まってるだの、言いたい放題である。 看護婦や入院患者のおじさんから聞いた話によると、彼女はだいぶ前からここに入院しているらしい。数ヶ月などという単位ではない、もう何年も前からのことだ。 しかし、いくら検査をしても悪いところなど、どこにも見当たらない。それなのに車椅子《くるまいす》から一向に立ち上がる様子はない。立ち上がる気さえないように思える。 医師たちの間では、それが仮病《けびよう》なのか、精神的に病んでいるのかわからないが、もし後者であればメンタルケアのできるところに移った方がいいのではないかという話にも当然なったらしい。だが、彼女はその病室から離れようとはせず、ずっと入院を続けているのだという。 「やっぱさ、女の子はちょっとぐらいミステリアスじゃないとねー」 進一の病室は、入院病棟の二階にあった。そこからエレベーターを使い三階に移動し、 ---------------------[End of Page 113]--------------------- 長い廊下をカツカツと一番隅まで行くと、少女の入院している部屋である。 昨日のこともあるので、バレないようにゆっくりと顔を覗《のぞ》かせた。 彼女の部屋のドアが閉まっているのを見たことがない。物騒だとは思うが、少女はドアを閉めると勝手に開けてしまうのだという。 最初は看護婦がこまめに閉めていたが、いくら閉めても開けてしまうので、最近では開けっ放しになっている。 部屋の中では、車椅子に乗った少女が窓の外を見ているところだった。 そこからは中庭が見渡せ、その先に大きな道路が通っているのがわかる。 歩道橋が道路を渡り、その上を小さな女の子が歩いている。その様子を、彼女はじっと見つめていた。少女は薄手のブルーのパジャマを着て、初めて見た時と同じように膝《ひざ》の上に大事そうにマクラを乗せていた。 「なに?きみ、そんなに外を見ちゃって。もしかして日本野鳥の会の皆さん?」 進一は昨日の晩からずっと考えていたギャグ(見事に滑った)と共に部屋に入り、ナースコールのボタンを握り締めた。 少女は先にボタンを取《ヒ》られてしまい、下唇を悔しそうにキュッと噛《か》む。 「大丈夫、大丈夫だって。安心して。俺、悪い奴《やつ》じゃないから」 勝手に部屋に入ってきて、しかもボタンを奪っておいてそれはないだろうと思うが、彼 ---------------------[End of Page 114]--------------------- はここ一番という時に見せる爽《さわ》やかな笑顔を浮かべる(これも滑ったが)。 少女は進一《しんいち》を無視することに決め込んだようだ。車椅子《くるまいす》を器用に回転させると、また窓の外を向いた。 「なんでお外なんて見てるのi?」 進一は彼女の隣に立ち、同じように外を見た。しかし、窓の外に広がるのはなんの変哲もない東京の風景だった。 「UFO、いないねi」 少女を横目で見ながら、何度か話しかけたが、それのどれにも反応しなかった。 しかし、彼の言った最後の言葉に、ようやく彼女は返事をした。 「うわ、こっから見ると結構下、怖いな。もしかして、自殺しようとしてる?」 「……そうかもね」 「げ」 しまった、と進一は思った。 冗談なのか本気なのか、まったくわからないトーンで返事をされてしまったのだ。 「……夢にね、悪魔が出てくるの」 少女は、独り言のように話し始めた。まるで進一がそこにいないように、空に向かってポツポツと、小雨のような言葉だった。 ---------------------[End of Page 115]--------------------- 「女の子。モデルさんみたいなきれいな人。その人が、こっちにおいでって手招きするの。 だけど、どうしても行けないの」 とりあえず進一は話を合わせようとする。 「なに、なんで行けないの?」 「待ってるから」 「待ってる?誰《だれ》を?」 その時、少女は足をスッと前に出し、そのまま車椅子を回転させた。 彼女の足は、進一の松葉杖《まつばづえ》を横から倒す形になり、彼は大きくバランスを崩す。 「あ……」 きれいに掃除された床の上に、彼はハデに転んでしまった。少女は腰をさすりながら立ち上がる進一を横目に、タイヤの音を立てつつベッドに近づく。そして、ナースコールのボタンを握った。 「ナンパでしょ?ばっかみたい」 そして、ボタンをしっかりと押す。 「うわああ、また来ますっ!」 進一は慌《あわ》てて病室から出ていく。しかし、数分経《た》っても看護婦はやってこなかった。 彼女はボタンを押す振《ふ》りをしていただけだった。 ---------------------[End of Page 116]--------------------- 「ほんと、ばっかみたい」 そう言うと、さっきと同じように窓に近づき外を眺めた。歩道橋の上を歩いていた女の子は、いつの間にかいなくなっていた。 「パパっていつもおうちにいるの?」 「いや、休みの時だけ」 「きょうはおやすみ?」 「日曜日と土曜日が学校休み。あと春休みとか夏休みとか色々ある」 「なつやすみはおやすみばっかり?」 「いや、宿題とか……。そうだ、まだやってねえよ……やばい……」 やばいのは夏休みの宿題だけではなかった。今のこの状況も十分やばかった。 なぜなら、佐間太郎《さまたろう》は今、全裸で湯船の中に浸《つ》かっている。愛《あい》はメメのシャンプーハットを使って髪の毛をゴシゴシと洗っているところなのだ。 決して佐間太郎の方から「よし、パパと入るかー!どれぐらい大きくなったのか見せておくれー1」と言ったわけではない。愛が、どうしても一緒に入りたいと言い出したのだ。一緒に入るならテンコでもいいではないか。むしろテンコの方が適役なのではないか。 そう彼は主張したが、どうしてもパパじゃないと嫌だと泣きそうになった。 ---------------------[End of Page 117]--------------------- ここで泣かれたら、ママさんに気づかれてしまう。佐間太郎《さまたろう》は仕方なく、なるべく薄目にして彼女の裸を見ないようにしながらお風呂《ふろ》に入った。 まだ幼稚園児ほどの発育とは言え、家族でもない女の子と一緒にお風呂に入るというのは抵抗がある。もしテンコに見つかったらこっぴどく叱《しか》られるだろう。 「あー、まいったなあ……この状況……と、宿題」 それにしても、どうしてテンコじゃなくて佐間太郎なのだろうか。よっぽど逃げ出してしまおうかと思ったが、愛《あい》は「パパにいわなくちゃいけないことがある」と言っていた。 「なんだよ、言わなくちゃいけないことってよ……」 さっきもバスルームから繰り返し呼んでいたのは、テンコではなく佐間太郎だった。彼を呼んでいたのは、その「いわなくちゃいけないこと」のせいなのだろうか。 お湯が白く濁るタイプの入浴剤をふんだんに入れ、なるべく色々なところが見えないようなバスタイムを送っている。 「じゃぶんする1じゃぶんする1」 そう言って愛は頭にモクモクの泡をつけたまま湯船に飛び込んできた。佐間太郎は手でシャンプーの泡を取《と》ってやり、彼女を肩まで浸《つ》からせる。 「お前、ちゃんと背中洗ったか?なんか汚れてるような気がするぞ?」 「あらったもん!あらったもん!あらったもん!」 ---------------------[End of Page 118]--------------------- 「わ、わかったよ。じゃあ、ちゃんと百まで数えんだぞ。そしたら出ていいからな」 「うん、かぞえる。いーち、にー、さーん、しー、ごー、ろー、なー、ろくじゅっ」 「なにそれ?なんで急に六十になんの?」 「きのう、ママがいってた」 それはもしや、一分以内に牛乳を取ってくると言った後のテンコのセリフなのだろうか。 だとしたら、なんという奴《やつ》であろう。いきなり六十に飛ぶのもどうかと思うが、六から既《すで》に適当にしか数えてないではないか。 「それよりね、パパ。おはなしがあるの。だからここにパパにきてもらったの」 「なんだ?あれか、さっきの言わなくちゃいけないことか?いいそ、言ってみ」 「あのね、ゆめのなかで、だれかがいってたの。あたし、ごーしか、いられないんだって。 それをわすれちゃだめだって。だから、はやくしなさいって」 「ごー?五?五ってこと?」 「うん、ごーにちーかん?」 愛は子供特有の無防備な動きで湯船のお湯をすくうと、顔をバシャバシャと洗った。 「五日間?五日間しかって、なにそれ?つうか、早くしなさいってなにを?」 「わかんない。でも、わかるの。ごーしか、ダメなの。それがチャンスなんだって」 佐間太郎には、彼女の言っている意味がまったくわからなかった。きっと、適当なこと ---------------------[End of Page 119]--------------------- を言っているのだろうと気にしないことにする。 「それでねi、ゆめのなかでね、さがしものをしてるの。とてもたいせつなもの」 「なんだよ、大切な物って。でもよ、夢の話だろ?夢の話されてもなあ」 「うー?」 「いや、うーじゃなくて」 彼女は鼻の下まで湯船に浸かり、口からポコポコと空気の泡を出しながら考え事をしているようだ。 「うー。うi。わかんないっ」 そう言うと、愛《あい》は不意に勢いよく立ち上がった。あまりに突然の出来事に、佐間太郎《さまたろう》の目を背けるタイミングが遅れてしまった。幼女の全裸を思い切り見てしまったのだ。 「いかん1神様として、いかん!これはなんか、非常に危険だ1」 「あついからでます」 そう言うと、よっこいしょとバスタブをまたぎ、さっさと脱衣所へと出ていってしまった。そこにはテンコのTシャツが用意してある。彼女にはかなり大きいだろうが、ひとまずそれを着るしかない。佐間太郎は、愛に合うような服など持っていないのである。 メメに言えばジャストサイズの服を借りれるだろうが、「なんで?」とあの真顔で言われたら返答に困ってしまう。 ---------------------[End of Page 120]--------------------- 「あーうー。ゆかぬれたー」 「いいよ、後で拭《ふ》いとくからさ」 「ありがとう」 愛はシャツを着ると、ドアを開けて廊下へと向かった。 タタタタと彼女が廊下を走る音が聞こえてくる。 「きゃあああああああ!幼女がああああああああ!」 その直後、ママさんの悲鳴が聞こえた。 「あー、まいったなあ……この状況……と、宿題」 佐間太郎はお風呂《ふろ》の中に、引《ひ》き摺《ず》り込まれるように沈んでいった。 神山《かみやま》家は、家族会議が多いことでも有名である(誰《だれ》に有名かは知らないが)。 現在も、ママさん、佐間太郎、テンコ、愛が食卓に集まり、重要な会議が行われていた。 議題はもちろん「この子供、誰?」というママさんからの質問である。 「酷《ひど》いっ。ママさんね、信じてたのに1佐間太郎ちゃんは、そんなことする子じゃないって信じてたのに!そんなにテンコちゃんがいいのPなんでママじゃダメなのPいつからそういう関係なのP何年間ママさんを騙《だま》し続けていたのお!」 そう言うと、彼女はオヨヨヨと食卓に崩れ落ちた。しかし、その顔には泥パックが塗ら ---------------------[End of Page 121]--------------------- れ、真っ黒になっている。よほどテンコに言われた「疲れは美容に悪い」という言葉のことが気になったのであろう。 「あの、ママさん、誤解なんですけど」 テンコが言い訳をしようとすると、ガバッと黒い顔を上げ、女神とは思えない恐ろしい眼《め》つきで彼女のことを睨《にら》みつけた。 「なにが誤解なの!ママさん、こんなに佐間太郎《さまたろう》ちゃんのことが大好きなのに!振《ふ》られたのよ1ハートブレイクなのよ1」 母親と息子の間に、振るとか振られるなんてあるのだろうか。佐間太郎も、事情を説明しようと口を挟む。 「いやね、オフクロさん。実はこれには深いわけがありまして」 「そんなの聞きたくありません1おっぱいだってママさんの方が大きいのに1なに、佐間太郎ちゃんは貧乳が好きなのPママさんはね、あなたをそんな子に育てた覚えはありませんよ!」 「ちょっとママさん!貧乳ってどういうことですか1」 「黙《だま》ってちょうだい、この泥棒猫1にゃー1にゃー!にゃー!」 愛《あい》は、その様子をアイスを食べながら眺めていた。言ってることの細かい内容はわからないが、自分のせいで三人が言い争っているということだけは理解できた。 ---------------------[End of Page 122]--------------------- 「オフクロ、貧乳とかは言い過ぎだろ?こいつ、実は結構胸、あるんだから」 「きいー!なんでそんなこと知ってるの1やっぱりあなたたち1にゃi1」 「いや、そうじゃなくて1前にプールで水着の時にジロジロ見てたから1」 「あんた、ジロジロ見てたの!なに見てんのよ!」 「うるせえ貧乳1黙れ!」 「誰《だれ》がー1もー1このダメ神様1」 「ちょつとテンコちゃん1ダメ神様ってどういうこと!」 「ママさんは黒い顔しないでください1」 「これは顔が黒いんじゃなくて、泥パックが黒いんです1きいー1」 既《すで》にただの悪口の言い合いになっていた。誰がなにを話しているのやら、である。 そんなケンカを止めたのは、意外にも愛であった。 「ごめんなさいっ」 小さな頭をペコリと下げると、サイズの大きいTシャツから肩がペロンと出る。 テンコは几帳面《きちようめん》にそれを直してから、「いいのよ、愛ちゃんのせいじゃないから」と言った。 「わたしがわるいの。わかってる。だからおばさん、パパとママをおこらないで」 しまった。と、佐間太郎とテンコは思った。 ---------------------[End of Page 123]--------------------- 「お……ば……さん?」 ママさんの顔が次第に悪魔のようになっていく。いくら女神とはいえ、怒らせると怖いのである。 「うん。わるいのはわたし。だから、おこらないで。おば……」 その時、咄嵯《ヒつさ》に佐間太郎《さまたろう》が愛《あい》に耳打ちする。 「お姉さん」 「え?あ、その、おこらないで……おねえさん」 「あら1もーなになに、この娘さん、なにー♪お姉さんだなんて、もーやーねー!」 全然嫌がっていない調子でママさんが言った。さっきまでのドス黒い悪意はどこへやら、後ろではバラの花が少女漫画のようにポワワワンと飛び出す(例によって、本当に出現しているのである)。 「あらあなた、名前なんだっけ?ペロ美ちゃんだっけ?ほらほら、ジュース飲む?ジュース?メメのだけど、いーわよ1飲んで。キャハ!佐間太郎ちゃん、今日からこの娘《こ》はうちの大事な家族よ!おほほほほほほ1」 佐間太郎は「あははは」と笑いながら、テンコに向かって意識を飛ばした。 コ応、よかったな」 「う、うん……。いいの?これ?」 ---------------------[End of Page 124]--------------------- 目の前では、無理やり愛にジュースをガブガブと飲ませるママさんの姿が見える。 「ほーら、ペロ美ちゃん、いっぱい飲んでー。むーり・むー?もう飲めないでしゅかーり.むーり.なにi、よく見たらかわいいじゃないのー。まあ、佐間太郎ちゃんの子供時代に比べたらちょっとあれだけどねー」 ひとまずウグウグと苦しんでいる愛の口に押し付けられたコップをやんわりとどかしてやり、佐間太郎は一連の説明を行った。 ママさんはフムフムと笑顔で頷《うなず》きながら、最後まで説明を聞き終える。 「あらi、なに、捨て子なのこの娘《こ》。ザウルスだ。ね、ザウルスね!」 「ザウルスじゃないし、本人の目の前で捨て子とか言うなよ……」 お腹をジュースでタプタブにした愛が、不思議そうに佐間太郎に訪ねた。 「ねえパパ、すてこってなーに?」 一瞬言葉に詰まった佐間太郎だったが、とびきりの笑顔と共に彼女に教えてやる。 「ザウルスだな。大きいんだぞi、ザウルスは。ボエーって鳴くし」 すると愛は大喜びになって言った。 「ボエーってなくのPボエー1ボエi!ボエー!」 とりあえず危機は去った。台所を嬉しそうに走り回る愛を放っておいて、テンコはママさんに聞いた。 ---------------------[End of Page 125]--------------------- 「それで、なんで一日であそこまで育ったんですかね?」 「知らないわよ、この貧乳娘っ」 全然危機は去っていなかった。テンコは頭から湯気をプシュッと立てて反論する。 「ちょっとママさん、そんな言い方ないじゃないですか!」 「だってママさん、そんなの知らないもーん!育ち盛りなんじゃないの?あ、ヨーガの時間だわ。テレビヨーガ講座を見なくっちゃ」 そう言いながらママさんは立ち上がると、タスタスと居間へと言ってテレビを見始めてしまった。 「ちょ、ちょっとオフクロ1ヨガはいいから!」 「ヨガじゃなくてヨーガよ佐間太郎《さまたろう》ちゃん。はい、一緒に水魚のポーズする?腰痛にいいんですってよ?」 「しねえよ!」 結局、事態はなにひとつとして解決しないのであった。 ひとまずテンコの部屋に逃げ込んだ(ヨーガを見ながらも、ママさんは「ひんにゅーひんにゅー」と繰り返していたので、かなり怖かった)二人だったが、佐間太郎はあっさりとした調子で言い放った。 ---------------------[End of Page 126]--------------------- 「じゃ、俺《ねれ》、でかけるから」 「なんで1なに、でかけるって1」 「ボエー!なに、でかけるって1」 テンコの横で、愛《あい》が嬉《うれ》しそうに彼女の真似《まね》をしている。佐間太郎は立ち上がり、適当な理由をでっち上げようと考えた。ようするに、どうしていいかわからなくなったので逃げ出そうというわけだ。 「えーと。ほら、進一《しんいら》のお見舞いに行かなくちゃ」 「なんで!昨日行ったんでしょう?」 「なんで1きのーボエー」 佐間太郎は少しだけ寂《さび》しそうな表情を作って眩《つぶや》く。 「あれ、お前知らなかったっけ?あいつんち、離婚して母親しかいないんだよ。だから、着替えとか俺が持ってかなくちゃならないんだ」 神様の息子とは言え、いざという時は卑怯《ひきよう》な嘘《うモ》もつくのである。そう言うと、テンコは仕方なさそうな顔をした。 「そ、そう。それならいいけどさ……。早く帰ってきてよね」 「わかってるって」 というわけで、佐間太郎は進一の入院している病院にやってきていた。 ---------------------[End of Page 127]--------------------- 本当に来なくてもいいのだが、明日から学校である。行ける時に行っておいてやろうという、少しだけ優しい気持ちを示したのだ。 そもそも、木から落ちたのは自分の責任でもあるわけだし。元はといえば、秘密スポットに連れていった進一《しんいち》が悪いのだが、佐間太郎《さまたろう》が無傷なのに対して、彼は骨折している。 それぐらいの仏心は出してやってもいいのではないだろうか。神様だし。 病院の廊下を歩いていると、窓から外を見ている進一を見つけた。 「お前、なに黄昏《たそがれ》てんだよ」 佐間太郎が言うと、彼は指で「しっ」と言った。どうやら、懲《こ》りずにまたなにかを覗《のぞ》いているらしい。 「お前な、また落ちても知らないそ」 「もう落ちねえよ1むしろ、落としてえよ!」 「なにそれ?」 「あれ、あれ。ほら、見てみろよ」 窓枠に手を付き、言われた通りに外の風景を眺める。世田谷《せたがや》の平凡な風景。忙しそうに行き来する車が走る道路、そこに歩道橋がかかっている。 「じゃなくて、もっとこっちだって」 彼は佐間太郎の頭を掴《つか》むと、グググッと下の方へ押した。視線の先には、木の陰で空を ---------------------[End of Page 128]--------------------- 眺めている一人の少女がいた。車椅子《くるまいす》にマクラ、例の彼女だ。 「お前、まだあきらめてなかったの?やめとけよー、無理無理」 「いや、結構イイトコまで行ったんだけどさ、あの娘《こ》、恥ずかしがりみたいでさ」 そう言って進一は笑った。この嘘《うそ》つき友達には、類は友を呼ぶという言葉がぴったりだ。 空を見上げ続ける少女を見ていて、彼はなにかを思いついたようだ。不意に手をポンと打って(松葉杖《まつばづえ》だというのに器用な男である)、佐間太郎に言った。 「よし、特攻隊長に話がある」 「おいおい、なんか今、すごく嫌な感じの呼ばれ方したぞ?」 「でな、隊長。俺《おれ》はあの娘《こ》と仲良くしたいわけだ。で、だ。隊長の出番だ」 進一は既《すで》に作戦が成功した場面を想像して、薄笑いを浮かべている。佐間太郎は、やっぱり来なければよかったと後悔した。 「まずお前があの娘に近づく。すみません、霧島《ミロリしま》くんてどこにいますか?あのカッコヨクテ、頭もヨクテ、スポーツヨクテ、モテもヨクテの霧島くんです。とな」 「で?」 「そうすれば彼女は、まあ1霧島くんてそんなに素敵な人だったの!好き1ってなるわけだな」 「じゃ、俺帰るから。ヨーガ講座見なくちゃ」 ---------------------[End of Page 129]--------------------- 「待て待て待て待て!そしたら、ここの食堂の食券やるから。焼きそばパンもあるぞ、焼きそばパン」 踵《きびす》を返して帰ろうとした佐間太郎《さまたろう》だったが、その言葉にお腹が反応する。グルルル。 そういえば、愛《あい》の問題があって今日は朝からなにも食べていない。 廊下にかけてある時計を見ると、もう昼過ぎだった。 「焼きそばパン?マジか?」 「マジだ。一生懸命、隊長してこい」 「う:む。わかった、隊長してくる」 そう言うと佐間太郎は行進するように廊下を歩き、彼女のいる中庭へと向かう。 その姿は進一《しんいち》には愛のキューピッドが飛んでいくように見えたのだった。キューピッドじゃなくてゴツドだけどね。 焼きそばパンのために中庭へといそいそと向かった佐間太郎は、中央にある大きな木へと近づいた。その下では、窓から見た時と同じ姿勢で彼女が車椅子《くるまいす》に座っていた。 空を見ているのだろうか、マクラを大事そうに抱え、痛々しいほど切なげな視線を遠くへ向けている。 「あの、ちょっといいですか?」 彼は恐怖心を与えないように、前に回らず真横に立って話しかけた。少女は夢から覚め ---------------------[End of Page 130]--------------------- たようにハッすると、佐間太郎のことを怪認《けげん》そうな顔で見つめる。 「霧島《らさりしま》くんてどこにいるか知ってますか?あの、カッコヨクテ、頭もヨクテ、スポーツヨクテ、モテもヨクテの霧島くんです」 彼女は言葉の意味がわからないようだった。確かにスポーツヨクテなんて日本語は存在しない。佐間太郎も自分で言いながら「なんだよそれ」と思っていたのだから、少女が理解できないのは当然である。 進一の作戦では、既《すで》にここで彼女が惚《ま》れてしまうというシナリオになっていたが、まったくそんな様子はない。 むしろ、佐間太郎に対して警戒心を抱かせただけである。 「ナンパ?」 ようやく少女はそう言った。彼は慌《あわ》てて否定する。 「違う1そうじゃなくて!俺はただ、霧島くんをですね……」 「霧島くんて、誰《だれ》?」 かわいそうな進一。苗字《みようじ》を覚えてもらってさえいない。この調子だと、進一という名前を記憶しているかどうかさえ怪しいものである。彼の話によれば「結構イイトコまで行った」はずではなかったのか。そんな様子は微塵《みじん》も感じられない。 「うそ。ごめん。進一の話はいいや。なしなし」 ---------------------[End of Page 131]--------------------- このままでは、変質者扱いされかねない。 佐間太郎《さまたろう》は早々に食券をあきらめ、作戦を中止にした。 「進一《しんいち》って、あの頭の悪そうなナンパの人?」 少女は、彼の名前は覚えていたみたいである。その印象は最悪としか言えないが。 「なに、あいつ、君のことナンパしたの?」 「した。夜に勝手に部屋に入ってきた。朝にも同じことした。あの人、嫌い」 そう言うと、彼女はさっきと同じように空を見始めた。そうしていることが当たり前であるように。 「はあ〜、そんなこったろうと思ったけどね……」 佐間太郎はため息をつき、なにかあるのだろうかと彼女と同じように空を眺めた。その先には空しかないように思えたが、注意深く視線をたどると、そこには歩道橋が見えた。 「君はさ、なにしてんの?ずっと遠くばっかり見てるけどさ」 彼が聞いても、少女は黙《だま》ったままだ。まるで佐間太郎の声が聞こえてないみたいに、返事をする気さえないように思える。 「・…:ちえ」 佐間太郎は進一の元に戻ろうと足を動かす。すると少女は一瞬だけ寂《さび》しそうな顔をして、小さく眩《つぶや》いた。 ---------------------[End of Page 132]--------------------- 「待ってる」 「待ってる?誰《だれ》を?」 予期せぬ返事に佐間太郎は聞き返す。しかし少女はまた黙り込んだ。 もしかして彼女は、言葉を話すことに抵抗があるのかも知れない。だからすぐに返事をしないのではないだろうか。少女はずっと歩道橋を見ている。彼は、彼女が返事をする気になるのを辛抱強く待った。 「待ってても無駄だって知ってるけどね。でも、もしかしたら……」 「なんで無駄?誰を待ってんの?」 パソコンを初めて触った人が、恐る恐るキーボードをタイプしているような感じだった。 言葉をひとつひとつ選び、一つキ:を押しては次のキーを探す。しばらく経って、ようやく彼女の口がゆっくりと開く。 「もうこの世にいないから」 今度は、佐間太郎が言葉に詰まってしまった。 「そうなんだ……」 少女は、もう既《すで》にこの世からいなくなってしまった誰かを待っているらしい。 たったそれだけの情報では、事態がまったくわからない。しかし、佐間太郎にとってそれはとても他人事《ひとごと》じゃないような気がした。 ---------------------[End of Page 133]--------------------- それにしても……。こうして近くで見てみると、やっぱり誰かに似ている。それが誰なのかはわからないが、間違いないのだ。彼は思い切って彼女に言ってみた。 「君さ、どっかで見たことあるんだけど……」 「え1本当に1あたしもなんだけど!」 今度の言葉は一瞬で出てきた。心が不安定なのだろうか。少女は佐間太郎《さまたろう》が返事をする前に、さらに続けた。 「どこかで見たことがあるの。それがどこか覚えてないんだけど、絶対にどこかで会ったことがあるんだと思う。だけど、思い出せない……」 もしかしたらそれが自分の思い過ごしかも知れないと感じていた佐間太郎は、彼女の言ったことに驚いた。しかし、二人してマジマジと見つめ合っても、どこで見かけたのかは思い出すことはできなかった。 少女は膝《ひざ》の上に乗せたマクラを撫《な》でながら、佐間太郎にしか聞こえないような小さな声で言った。 「なんだろう……誰かに似てるのかな……それとも会ったことあるのかな」 きっと、今頃《ごろ》窓際で進一《しんいち》が歯がゆい思いをしているに違いない。なにしろ、彼は今までまともに相手にされたことすらないのだ。そんな彼女が初対面の佐間太郎と見つめ合っているのである。うむむ、あの裏切り者め……と逆恨みすらしていそうだ。 ---------------------[End of Page 134]--------------------- 「なんだかあなたは他《ほか》の人と違う気がする」 少女は佐間太郎をマジマジと見つめながらそう言った。車椅子《くるまいす》に座っているので、自然と見上げるような視線になる。女の子にそんなセリフを言われたことのなかった佐間太郎は、思わず言葉を詰まらせる。もしかしてこれって、いい雰囲気というやつなのではないだろうか。 「あなた、あたしの夢の話を聞いてくれる?」 夢の話!佐間太郎は、なにかの本に「男は女を口説《くど》く時に夢の話をします。例そのー俺《おれ》、将来は大リーガーになるんだ。など」と書いてあったのを思い出した。 それって、男女が逆でも適用されるのだろうか。もしそうだとしたら、自分は彼女に気に入られたということかも知れない。これからロマンティック街道をドライブなのか。 そんな佐間太郎の単純過ぎる胸の高鳴りなど知らずに、少女は言った。 「実はね、夢に悪魔が出てくるの。それで、あたしを誘うの。そんなところにいないで、こっちにおいでって。髪が長くて、体が細くて、赤い服を着た女の子なんだけどね。そう、ただの女の子なんだけど、なんでか悪魔ってわかるの。夢ってそういうものでしょう?彼女はこう言うの。どうせ待ってたって無駄なんだからって」 果てしなくロマンティックではなかった。どっちかと言うとオカルトだ。 「でもね、途中で……もう一人の女の子が、あたしを弛き止めるの。今すぐ迎えに行くか ---------------------[End of Page 135]--------------------- ら、もうちょっと待っててって。だから、あたしは悪魔のところまで行けないの。きっと迎えに行くから、そこでずっと待っててね、って、彼女の言うことを信じてるから……。 夢なんだから、それを信じたところでどうにもならないんだけどね。あなたは、どう思う?」 佐間太郎《さまたろう》は気を取《と》り直し、思ったことをそのまま言う。 「う:ん。悪魔っていうのは見たことないけど、いてもおかしくないと思うからさ。天使だって神様だっている世の中だからね。悪魔ぐらいいても不思議じゃないから」 それを聞いた少女は、自分から質問をしておいて、真面目《まじめ》に答えられたことに驚いたようだった。 「な、なんだよ……。なんでそんな驚いた顔してんだよ……」 「う、ううん。だって、バカにしないの?あたしのこと。そんなの夢じゃないかって」 「えー。でもさ、否定する理由なんてどこにもないからなあ……」 佐間太郎はポリポリと頬をかいた。 なにしろ、父親は神様だし、母親は女神、幼馴染《おきななじ》みは天使なのである。そんな環境で育った彼が、悪魔の存在を否定する理由などあるだろうか。 「あなたって、変な人ね」 少女は少しだけ笑顔を作った。進一《しんいち》ですら見たことのない笑顔を、佐間太郎はこっそり ---------------------[End of Page 136]--------------------- と受け取る。 「そうかな。変かな。でもさ、マクラ持ってるのも変だよね」 「あ……これはね、代わりなの」 「代わり?」 しかし、それ以上彼女は言葉を続けなかった。どうやら、この話題はタブーのようだ。 佐間太郎は近くで車椅子《くるまいす》を見るのは初めてだったので、失礼かも知れないと思いながらマジマジとそれを観察した。 「足、悪いの?」 「ううん。なんだか、歩ける気がしなくて。もう、いいや、こんな世界って思って」 彼女の言葉に、佐間太郎はなんとなく共感を覚えた。彼も今までは、人間として生きているこの世の中に「もういいや」と思っていたのである。 なにしろ、パパさんに言えばなんでも叶《かな》ってしまうし、不自由なことなど→つとしてなかったのだ。 しかし、パパさんが天国に行き、奇跡が起こらなくなってからというもの、そうでもないかなと思い始めていた。 上手《・,の;》くいかない世の中を、なんとか自分の力で不器用ながら過ごしていくのも.悪くないのではないかと感じていた。 ---------------------[End of Page 137]--------------------- 「俺も昔は、なんかなーって思ってたけど、そんなに悪くないと思うよ」 彼の言葉に、少女は不思議そうに聞いた。 「なにが?」 「なにって。この世の中。自分からなにかしようとすると、ちょっとだけ世界が変わって見えるかも知れない」 「説教?」 「そうじゃない。君も、足が悪くないんだったら歩いてみれば?前に進んでみれば?」 「……いいの、あたしは待ってるだけで」 少しだけよくなっていた雰囲気が、沈黙に支配されていく。佐間太郎《さまたろう》は居心地が悪くなり、進一《しんいち》のところへ戻ることにした。 「あ、俺、もう行くから」 「ちょっと、待って、名前、教えて」 「俺?神山《かみやま》佐間太郎」 「あたしは……」 「この裏切り者めがああああああああ!」 その時、佐間太郎の意識は一瞬で銀河の彼方へと飛んでいった。いきなり後ろから、ものすごい勢いで進一がラリアートをかましたのだ。 ---------------------[End of Page 138]--------------------- 「うわ!ごめん!てっきり、凶悪なプロレスラーに君が襲われてるとばかり思って!よく見れば佐間太郎じゃないか1よし、目を覚ませ!はいつ!ゴッ!」 口から泡を吹いている佐間太郎を見て、少女は声を荒げる。 「どこが凶悪なのよ1あんたより、ずっとマシじゃない!ゴッ、じゃないわよ!」 「でっ!そ、そんなことないでしょう!ねえ、俺の方がマシでしょう1」 「いいから、この人をあたしの部屋まで運んでくれない?」 少女はそう言うと、車椅子《くるまいす》で入院病棟の方へ向かった。 「なんでPなんで君の部屋にP」 「あたしのベッドに寝かせるに決まってるじゃない」 「なんだよそれ!ちっくしょう……」 進一は目をグルグルと回しながら倒れてる佐間太郎を渋々と背負った。 「もー1パパって最低ね!」 「ボエー!さまたろーちゃんてばさいてーなのね!ほえほえほえ1」 「ちょっと愛《あい》ちゃん。ママさんの真似《まね》しちゃダメでしょ?ああいうのはね、親ばかって言うのよ?もうパパのこと佐間太郎ちゃんとか言ったらダメよ?」 「うん1いいません!ばか。ばか。ばか」 ---------------------[End of Page 139]--------------------- 「……ばかじゃなくて、親ばか」 「ママさんは、ばか」 「だから……」 駅前の商店街を、テンコと愛《あい》は手を繋《つな》いで歩いていた。愛はメメに貸してもらったシャツにスカートをはいている。メメは愛を見ても、驚きもしなかった。まあ、そういうこともあるんじゃないの?という程度の返事をすると、自室のクローゼットから比較的新しい洋服を選んで出した。 彼女の服も愛には大きかったが、それでもテンコのTシャツを着てハロウィンの仮装のようになっているよりはマシである。 着替える時、テンコは愛の背中に黒い汚れを見つけた。タオルで拭《ふ》いてやったが、それはなかなか落ちなかった。お風呂《ふろ》に入った時にでもしっかり洗うかと、すっかり母親気取《ど》りで彼女は思うのであった。 「はi。それにしてもまいったなあ……。愛ちゃんは、夕飯になに食べたいの?」 「えー?なんでもいいよ。なんでも、いいです」 「うーん、どうしよう。毎日となると、たかが夕飯のメニューでも困っちゃうのよねえ。 どうしようかしら、焼きそば……オムライス……すき焼き……うーん」 悩みながら歩いていると、商店街を抜けて駅の方まで来てしまった。 ---------------------[End of Page 140]--------------------- 「あーもー1決まんないー!……そういえば、佐間太郎《さまたろう》ってばまだ帰ってきてないのよね。愛《あい》ちゃん、進一《しんいち》のとこにお見舞いに行く?そんで佐闘太郎に決めてもらおう。うんうん、それが簡単でいい。よし、行こうっ」 「うんうん、しんいちにあいにいくー!」 二人は夕食のメニューを決めるために、進一の入院している病院へと向かった。 敷地内に入ると、愛がジュースを飲みたいと急にグズり出したので、中庭のベンチに座らせてオレンジジュースを与えた。 最初は一緒に病室まで行こうかと思ったが、中でジュースをこぼされたら大変だと、彼女をそこに残すことにした。入院患者が数人ベンチに腰掛けているし、医師や看護婦も休《愈ゆう》憩している。少し心配だが、すぐに戻ってくれば問題ないだろう。 「いーい、すぐ帰ってくるからね?知らない人についていっちゃダメよ?」 「はい!ついていきません1」 テンコは愛に言い聞かせると、進一の病室へと向かった。しかし、彼の部屋に佐間太郎の姿はなかった。ベッドにはふてくされた表情で進一が寝ていたが、テンコが入ってくると嬉《うれ》しそうに言う。 「わ1テンコちゃん!お見舞いに来てくれたんだー1嬉《うれ》しい!はっは〜ん、さては俺《おれ》に惚《ほ》れてるな?」 ---------------------[End of Page 141]--------------------- 進一の幸せな妄想を、彼女は表情ひとつ変えずに打ち砕く。 「惚れてません。佐間太郎に会いにきただけです。もう帰っちゃったの?」 「さ、佐間太郎?も、も、もう帰ったんじゃないかなー。ピュピュノピュi」 彼はいかにも「なにか隠してます」と言った具合で答えると、わざとらしく口笛なんぞを吹き始めた。 「なにそれ?口笛。あやしい。なんかあるでしょ?」 「はい、なんかあります」 白状が早過ぎる。というのも、既《すで》にテンコの手がギプスをはめている進一の足をグッと掴《つか》んでいたからである。もし妙な嘘《うそ》でもついたら、それをブンブン振《ふ》られるのが目に見えている。 「あっちの病棟のね、三階にいます。女の子と一緒です」 「女の子と?誰《だれ》、それ?なんで?」 「さi?俺にはわかんないんだけど……あたたたたた(ギプスを叩《たた》かれた)!いや、その、ちょっとあいつ中庭で倒れちゃって。その女の子が看病してるんだよね。なにやらベッドに寝てるらしい、いだだだだだだ(ギプスにキックされた)!だってそれ、俺のせいじゃねえし!知らねえよ1」 ラリアットで佐間太郎が気絶したことなどすっかり棚に上げ、彼は無実を主張した。 ---------------------[End of Page 142]--------------------- テンコはオデコに太い血管を浮き出しながら、進一《しんいち》に教えてもらった病室へと、大魔神《だいまじん》のような歩調で向かった。 彼女はエレベーターを使わず、階段を力いっぱい踏みしめながら目的の病室へと進む。 たどり着いた部屋のドアは開いていた。見つからないように、そっと覗《のぞ》き込むと、そこには車椅子《くるまいす》の少女と、ベッドに寝て上半身だけ起こしている佐間太郎《さまたろう》がいた。 「フフフ。進一のお見舞いに行くとか言って、そういうことだったのね……。ナイス度胸。 ナイス子育て放棄。あたしは許さないからね……」 二人は楽しそうに笑っている。少女は「あなたって、本当に初めて会った気がしないの」 と繰り返した。佐間太郎も「やっぱりどこかで見たことあるんだよなあ」と頭をかいている。 「ククク。やっすい口説《くど》き文句使ちゃってさあ……。なに、それ、運命の出会いのつもり?許さないからね……」 テンコが覗いていることなど知らず、二人は会話を続ける。 「でもさ、どうしてドア、開けっ放しなの?」 「いつ来てくれてもいいように」 「待ってる人が?」 「そう、待ってる人が。あたしを迎えに来てくれる人が」 ---------------------[End of Page 143]--------------------- ギリギリと奥歯を噛みしめながらも、テンコは「二人して謎《ねモ》めいた会話しちゃってもー、全然意味わかんないい〜」と苛立《いらだ》つ。 「あ、そうだ、俺《おれ》もう帰らなくちゃ」 佐間太郎はベッドから起き上がると、床に置いてあったアディダスに足を突っ込んだ。 少女は寂《さび》しそうな顔をして、車椅子ごと彼に近づく。 「ねえ、佐間太郎。また来てくれる?」 「え?ああ、進一のお見舞いに来たついでに寄るよ」 「ううん、そうじゃなくて。あたしに会いに来てくれる?」 彼女は恥ずかしがることもなくそう言った。佐間太郎は、少女の手が名残惜《なごηお》しそうに自分のTシャツを掴《つか》むのがわかった。 「え。それってどういう……」 「あたしの言ってること、ちゃんと聞いてくれたの、あなたが初めてだから」 「そ、それって……」 「ばかっ1」 佐間太郎は、弾《はじ》けるように廊下の方に顔を向けたが、もうそこには誰《だれ》もいなかった。しかし、今聞こえたのは確かにテンコの声だ。 「なに?どうしたの?」 ---------------------[End of Page 144]--------------------- 神様家族にしか聞こえない心の声は、当然少女には届かない。一緒になって廊下を見たが、そこにはなんの変化もなかった。 「ごめん、俺、今すぐ行かないと。ちょっとね、たぶん、誤解が生じた」 佐間太郎《さまたろう》は少女の手を優しく握ると「また来るから」と言った。 「俺、今からアホの相手しなくちゃなんないからさ」 「アホ?」 「そう、いちいち騒がしい、ヤカン」 「ヤカン?」 「まあいいや。そんじゃね」 ちょっと待って、という少女の言葉は彼に届かなかった。廊下に出ると、そこには焚き火の後のように煙がくすぶっていた。間違いない、テンコだ。 佐間太郎はエレベーターで一階まで降り、中庭に向かう。正面玄関は人が多くいるから、彼女は本能的に引《ひ》き返すだろう。 だとしたら、裏口から抜けた中庭がテンコの逃げ道だ。 中庭に向かうと、案の定テンコが顔を膝《ひざ》に埋めて体育すわりで座っていた。 「おーい、誤解誤解。まず誤解」 「いい。聞きたくない。この浮気もの」 ---------------------[End of Page 145]--------------------- 「浮気って言われても、俺はお前の恋人でもなんでもないそ」 「でも愛《あい》ちゃんいるじゃない。パパじゃない」 「いや、そうだけどさ……。ってそうなのか?」 佐間太郎は困り果てて、彼女の隣に座った。ベンチがあるというのに、わざわざ地面に並んで座る二人を、入院患者は物珍しそうに眺めている。 「すぐ女の子にデレデレするんだから」 「してねえだろ」 「前の佐間太郎はそんなんじゃなかったのに……。なんでこうなったんだろう。前は、人間の女の子になんて興味なかったのに……」 言われてみれば確かにそうだ。以前は人間の女の子に対してどうこう思うことなんてなかった。しかし、夏の始まりに人間を好きになってから、他《ほか》の女の子にも興味が湧《わ》いてきた。神様らしからぬ感情だが、佐間太郎は人間の気持ちを知るために、人間として生きているのだ。だから、それはいいことなのかも知れない。 どっちにしろ、テンコにとってはヤキモチの対象にしかならないが。 「佐間太郎はいいよね。パパさんもいるし、ママさんもいるし。美佐《みさ》さんもメメちゃんだっているし。素敵な家族だと思うよ、傍《はた》から見ててさ。でもあたしにはなんもないのに。 それなのにさ、浮気するしさ。信じらんないよ」 ---------------------[End of Page 146]--------------------- あたしには佐間太郎《さまたろう》しかいないのに。あなたを見守ることが全《すべ》てなのに。 そう続けたかったが、さすがにそこまでは言えなかった。本当はもっとたくさん伝えたいことがある。だけど、それを言ってしまっては天使失格なのではないかと彼女は言葉を飲み込んだ。 「わけわかんねえ。お前だって家族じゃねえかよ。それをなに言ってんだ」 「そりゃ一緒に住んでるけどさ。あたし天使だもん。女神様じゃないもん」 「そんなの関係ないだろ」 「ある」 「ない」 テンコは黙《だま》り込んでしまった。風が吹き、中央にある大きな木を揺らす。 葉の重なり合う音が、波のようになって二人に届いた。 「最近さ、やっぱり冷たいよね」 彼女は顔を埋めたまま、さっきよりずっと小さな声で言った。 「そんなこと……あるか。あるよな。あるだろうなあ……」 彼は意識してそうしているのだ。テンコに指摘されて言い訳しようと思ったが、どうせすぐばれてしまうだろうと素直に返事をした。 「正直に言って。誰《だれ》かのこと好きになったの?」 ---------------------[End of Page 147]--------------------- 「なんでそんなことお前に言わなくちゃなんないんだよ。いや、そうです、ってことじゃないけどな。でも、別に、言わなくてもいいじゃん。てか、クダラナイ理由だから言いたくない」 「あっそ。どうせあたしはくだらないもん」 「そんなこと言ってないだうが」 テンコは「ふん」と小さく鼻を鳴らした。そしてまた沈黙。 「あああああああああああああ1」 その直後、いきなり彼女は立ち上がった。佐間太郎はなにごとかとうろたえる。 「愛《あい》ちゃんがいないいいいいいい1」 彼女は二人が座っている横にあるベンチを指差した。そこは、愛がオレンジジュースを飲みながら座っていた場所のはずだ。しかし、テンコの言う通り彼女の姿は見えない。 「なんだってP”お前、あいつを一人にしたのか!」 「だって、どうせすぐ戻ると思ったし、それに、いなくなるなんて1」 既《すで》に涙目のテンコの肩を掴《つか》み、佐間太郎は彼女を落ち着かせようとした。 「いいか、俺が探すから、お前はここで戻ってくるのを待ってろ」 「でも、探すって、どこをP”」 「全部っ!」 ---------------------[End of Page 148]--------------------- 佐間太郎《さまたろう》はそう言うと、院内へと駆け込んだ。それから彼は隅から隅まで病院の中を走り回った。何度か看護婦に注意されたが、それでも走る速度を落とそうとはしなかった。 進一《しんいら》の部屋にも、少女の部屋にも愛《あい》はいなかった(そういえば彼女の名前をまだ聞いていない)。スタッフ専用の通路を無許可で走り回り、しまいには手術中の手術室まで窓から覗《のぞ》いた。それでも愛の姿はどこにも見つからなかった。 『わーん!佐間太郎、見つかったp」 『うるせえ1見つかったら教えるから、少し黙《だま》ってろ!』 テンコからの声をシャットアウトし、病院から駅へ向かう。病院の敷地の外へ出てしまったのだとしたら、見つかるかどうかわからない。最近は物騒だし、誰《だれ》かに連れさらわれたという可能性もある。 「ちくしょう、あのガキ、どこ行きやがった……」 商店街を見渡し、学校への坂道を駆け上がり、散々彼女を探したものの、結局見つけることはできなかった。 「あっちい〜……」 佐間太郎のシャツは、汗で濡《ぬ》れていた。額に髪の毛が張り付いてくるのを手で払い、なにかいいアイデアはないかと考える。 「そうだ……」 ---------------------[End of Page 149]--------------------- その時、少女の病室から見えた歩道橋を思い出す。あそこなら、少しは街が見渡せるかも知れない。病院の近くにいるのだとしたら、あの場所が一番見つけやすいだろう。 彼は学校から病院まで戻り、歩道橋へ向かった。 その歩道橋は、妙に手すりの位置が低かった。こんな作りをしてたら、子供が落ちてしまうではないか。佐間太郎は思ったが、きっと愛のことがなかったらそんなこと考えもしなかっただろう。 十字路の上に作られた歩道橋を上ると、そこに人影が見える。 「愛?」 肩で息をしながら近づくと、それが小学生ぐらいの女の子だということがわかった。 愛だったら、もっと背が低いはずだ。 彼女は歩道橋の上から、真下の道路を眺めていた。数多くの車が行き来する様子を、ジーッと真剣な顔で見ている。佐間太郎は、もしかしたら彼女が愛のことを見かけているかも知れないと少女に近づく。 「ね、尺ねえ、きみさ、これくらいの女の子見なかった?」 彼は、少女より低い位置を手で示した。彼女は振《ふ》り向くと、屈託《くつたく》のない声で言った。 「あ、パパつ」 「は?」 ---------------------[End of Page 150]--------------------- 強い風が吹き、汗で濡《ぬ》れた全身を寒いほどに冷やした。 「パパ1パパ!」 「えP”マ、マジかよ……」 綜議はマジマジと少女を見つめる・背丈は蜘よりも大きいし、髪の毛も伸びているが、よく見れば彼女の着ている服はメメの物だった。サイズはルーズではなく、ジャストになっている。ずっとここにいたのだろう、彼女の肌は太陽の日差しにより赤く火照《ほて》っていた。 「つかぬことをお伺《うかが》いしますが、もしかして、愛さんですか?」 「そうだよ、パパっ1お帰りなさいっ!」 舌足らずだった愛は、今でははっきりとした言葉を話している。 佐間太郎は彼女に抱きつかれ、どうすればいいのかわからなかった。 ---------------------[End of Page 151]--------------------- 四章たいせつなおともだち その夜、佐間太郎とテンコは眠っている愛をジイイイイイイイっと見つめていた。 「いつデカくなんだうな?」 「やっぱり、寝てる時なんじゃないの?」 佐間太郎の部屋のベッドで、スゥスゥと寝息を立てている少女。行方不明になる前よりも、五歳分以上大きくなっている。二人は、なぜ急にまた発育したのかを討論した。 「でもさ、寝る子は育つっていうけど、育ち過ぎだろ?それに、病院の中庭から勝手にどつか行った時は、寝てなかっただろうしさ」 「うーん……そうよね。じゃあ、どうして?なんか、変なとこなかった?」 「変?そうだなあ……変……変…:・」 佐間太郎はTシャツにハーフパンツという寝巻き姿で考えた。テンコに言わせると、パジャマと普段着が変わらないじゃないの、ということらしいが、彼の中では使い分けているらしい。一方テンコは、どこで買ってきたのか天使の柄のパジャマを着ている。 ピーチシャ:ベットのような淡いピンクをしているそれを、近所のス!パーで九八○円で購入したらしい。非常に趣味がよろしくないが、彼女が着るとなんとなく説得力がある。 ---------------------[End of Page 152]--------------------- なにせ、天使なのだし。 「そういえば、一緒に風呂《ふろ》に入った時に妙なこと言ってたな」 「なに?一緒にお風呂?それ、初耳なんですけど」 「いや!ほら、愛《あい》に無理やり誘われて」 「ちょっとパパ〜》変なことしなかった?チョイチョイとかさ?」 「してないしてない1ともかくだな、夢がどうとかって言ってたな。そのことを、どうしても俺に伝えたかったらしい」 「夢?なにそれ」 佐間太郎《さまたろう》は、愛が夢の話をしたことをテンコに話した。自分は五日間しかいられないこと、そして大切な物を探していること。 「なにそれ、ただの夢でしょ?関係ないんじゃないの?」 「そうだよなあ。あ、そういえば……」 彼は車椅子《くるまいす》の少女も夢の話をしていたことを思い出す。しかし、なんとなくその話をしたらテンコが不機嫌になりそうだったのでやめておいた。 彼女は、夢の中に悪魔が出てくると言っていた。それと、誰《だれ》かに引《ひ》き止められているとも。しかし、その二つを並べたところで、奇妙な夢の話をする二人の少女ということにしかならない。なにか共通点でもあるのだろうか。 ---------------------[End of Page 153]--------------------- 「なに!途中でやめないでよ!気になるでしょ1」 「いやいや、なんでもない。しかし、急にでっかくなったなあ。メメと同い年ぐらいか。 あいつのパジャマがピッタリだもんなあ……」 愛はメメから借りたパジャマを着て、むにゃむにゃと寝ている。その寝顔を見て、佐間太郎はまたしてもどこかで見たような気になる。 「なあテンコ。この顔、どっかで見たことないか?」 「やっす!あんたの口説《くど》き文句、ほんと安いのよ1」 「違うよ!誰を口説いてんだ俺は!そうじゃなくて、どっかで見たよなあ?」 「さあ?あたしは全然わかんないけど?」 それでもテンコは必死になって、愛の顔を覗《のぞ》き込んだ。どこかで見ただろうかり・誰か、似てる人物はいないだろうか。 しかし、テンコの記憶に一致する点はなかった。 「わかんない。そもそもあたし、小学生なんてメメちゃんしかしらないし」 「だよなあ。俺だって知らないからなあ」 部屋の隅では、古い形をした扇風機がカラカラと音を立てて動いている。その風はテンコの髪を揺らして、甘い香りを佐間太郎に届けた。 ベッドの枕元《まくらもと》に置いてある目覚まし時計を確認すると、既《すで》に深夜の二時を回っている。 ---------------------[End of Page 154]--------------------- 明日は月曜日だから学校もある。いつまでもこうして愛《あい》を観察しているわけにもいかない。佐間太郎《さまたろう》は大きく背伸びをすると、テンコに部屋に戻るように告げた。 「なんでー!だって、大きくなる瞬間、見たいもん」 「だけどよ、学校サボっちゃダメだろ」 「あんただって、宿題やんなきゃいけないんでしょ?」 うぐ、と彼は声に出して言った。そうだ、すっかり忘れていたが、夏休みの宿題がまだ終わってないのだ。実は学校が始まってから、毎日少しずつこなしていたが、それでもまだ大量に残っている。 「わかった、宿題やるから出てけ」 「なんで?あたし、邪魔しないよ?ここにいるだけ。愛ちゃんのこと見てるだけだから。それならいいでしょ?」 「うるせえ。いるだけで気になるんだよ。集中ができん」 「あっそ。わかりました。それならあたしは寝ます。じゃあね、ちゃんと宿題しつつも成長しそうになったら呼んでね」 テンコは不満そうな顔で言い残すと、自分の部屋に戻っていった。 佐間太郎はカバンからノートを取《と》り出し、残っている宿題を片付けることにした。 それからどれぐらい時間が経《た》ったのだろうか。いつの間にか彼は、机に突っ伏して眠っ ---------------------[End of Page 155]--------------------- ていた。目覚まし時計が発する遠慮のない電子音で目覚めた頃《ころ》には、窓の外は明るくなっていた。ベッドを見ると、小学生のままの愛が憎らしそうに目覚まし時計を叩《たた》いている。 どうやら、あれからの発育はなかったらしい。眠ると成長するという説はやっぱり違うようだ。だとしたら、なにをキッカケに彼女は大きくなるのだろうか? 「あふーう。パパ、おはよう」 「ああ、おはよう」 佐間太郎は何の気なしに返事をしたが、昨日彼女が行方不明になったことを思い出して、少し不安になった。またどこかに行ったら、見つけてやることができないかも知れない。 そんなことになったら、心配でいてもたってもいられないだろう。 「愛、ちょっとパパのとこおいで」 「なんでー?まだ眠いよお」 「いいから」 愛は眠そうに目をこすっていたが、はーいと返事をして佐間太郎に歩み寄った。 「パパにだっこして」 「だっこ」 小さな体を抱きしめると、ドクンドクンと心臓の音がした。佐間太郎は彼女の燭に、軽くキスをする。愛のことが、愛しいと感じるようになっていた。 ---------------------[End of Page 156]--------------------- 「なに?今の?」 「チューです。大事な人に、やるものなのです」 「そっか。じゃあ愛《あい》もパパにチュ:する」 愛は背伸びをして、彼の頬《ほお》にキスをしようとする。佐間太郎《きまたろう》はしゃがむような姿勢で、彼女に頬を見せた。 「むにゃー。佐間太郎、愛ちゃん成長した?」 愛の唇が佐間太郎の頬に触れた瞬間、テンコの頭から湯気が出た。 このロリコン男爵《だんしやく》め1そう彼女は言って、パンチを六発出した。六発もだよつ・ 「じゃあ愛、また迷ったりしたら困るから、もう外に出るなよ?」 「そうよ、ちゃんとおうちにいるのよ?」 「はーい!行ってらっしゃーい1」 顔をボコボコに殴られた佐間太郎は、テンコと一緒に学校へと向かう。 メメは既《すで》にランドセルを背負って、登校済みである。 残されたのはママさんと愛、それに美佐《みさ》だ。美佐はママさんだけに愛を任せるのが不安だと言って、学校をズル休みすることになった。 テンコはありがとうございますと感謝したが、美佐の本当の目的は他《ほか》にあった。 ---------------------[End of Page 157]--------------------- ママさんは居間で朝のワイドショーを見ながら「うんうん、そうよね、最近の犯罪って凶悪なのよねえ〜」などと頷《うなず》いている。その横で、ソファーの上に愛《あい》を立たせ、ニヤニヤと見ているのが美佐《みさ》だ。 「あんたさ、結構カワイイわよね。いけるかもよ、女神」 「え?女神ってなに?」 「あれ?知らなかった?あたし、女神。あそこでおせんべ食べてるおばちゃんも女神なのよ?」 おばちゃんと言われたママさんは、キッと美佐を睨みつけて怒鳴る。 「お姉さんでしょ!そこ、一番大事だから!絶対に間違わないでね1あと、女神だってこと言ったらダメよ?別にいいけど」 別にいいのか、よくないでしょ。美佐はそう思ったが、「はーい」とブリッこして返事をするだけだった。 彼女は、愛と呼ばれる不思議な少女がずっとここにいるはずはないと考えていた。 きっとなにか間違いがあって、彼女は神山《かみやま》家にやってきたのだ。 だから、彼女に女神だ神だと知られたところでどうでもいいと考えていた。 案の定、愛も愛で、それを聞いても驚く様子すらない。 「あんたさ、なんか覚えてないの?ん?ゆってみ?うり」 ---------------------[End of Page 158]--------------------- そう言いながら、美佐は愛のオデコをプシプシと指で叩《たた》く。その度に彼女は「はう、はう、はう」と短い声を上げ顔を背けた。 「うひー!カッワウィー。かわいいねえ、やっぱ幼女ってイケるかも。メメより全然愛想《あいそ》いいしね。あの子、もうちょっと男に媚《こび》売ること考えないとダメよねえ」 「媚ってなんですかあ?」 「うっせ。プシッ1」 「いたっ1痛いです、お姉さん、やめてくださいっ」 「きししっ。カワイイなあ」 あきらかにイジメであるが、美佐は心の底から幸せそうに笑っている。愛はその場から逃げ出したいが、どこにも行く場所がないことを知っているのでただひたすら耐えている。 なんと健気《けなげ》な少女なのであろうか。 「なんか覚えてないの?ねえ、言いなさいよ。くすぐっちゃうよ?」 「うi。それがですね、よくわからんのです」 「よくわからんのですって……。そもそもあんたさ、なんで成長早いの?」 「早いんですかつ・あたし、ちょっと、それ関係は苦手で……」 オロオロと戸惑う愛を、執拗《しつよう》に追及する美佐。しかし、いくらデコピンしてもなにも言わない。本当に自分のことがわからないらしい。 ---------------------[End of Page 159]--------------------- 「うーむ、なかなかムズカスィーですな。ちょっと佐間太郎《さまたろう》の部屋でも探検しに行く?」 「パパの部屋P行く1行く!」 美佐《みさ》は彼女の手を引《ひ》き、佐間太郎の部屋へと向かった。 二階に上がり佐間太郎の部屋のドアを開けると、殺風景な景色が広がる。彼の部屋は必用最低限の物しか存在しない。ベッド、机、それにタンスが少し。本棚には本がほとんど入っていないし、CDラックもすかすかだ。いつもと違うのは、机の上に愛《あい》が入っていた揺りかごが置いてあるところだけだった。 「こういう生活してるから健全じゃなくなるのよね、凡……。ベッドの下にエッチな本とか隠してないのかしら」 ベッドのマットレスの下に手を突っ込み、ゴソゴソとする美佐。そこになにもないと知ると、残念そうに舌打ちをする。 「ちっ。なんでないのよ。あいつ、高校生でしょ?あ、もしかしてビデオ派?」 彼女が好き勝手な調査を行っている横で、愛は自分が運ばれてきたというカゴを見ていた。中に手を突っ込み、ゴソゴソと探る。決して自分のルーツを探しているわけではない。 ただ単に、美佐の真似《まね》をしているだけである。 「そうそう、そういう調子でやってくださいな。肌色とかピンク色とかの多い本が出てきたらお姉ちゃんに提出ね」 ---------------------[End of Page 160]--------------------- 「はいっ」 デコピンが怖いのか、彼女の役に立とうと必死になってカゴを漁《あさ》る愛。その横で美佐が、大きく息をついた。 「ふー。暑いー。ダメだ、限界。下から麦茶持ってくる。あんたも飲む?」 「飲みます1オレンジジユース1」 「いや、麦茶」 「……はい」 残念そうにカゴに手を突っ込む彼女を置き、美佐は麦茶を取《レ一》りに行く。 コップに麦茶を注ぎ、カラコロと氷を入れていると、ママさんがテレビを見ながら美佐に言った。 「美佐ちゃーん。あんまりあの子いじめちゃダメよー。なにせ正体不明なんですから」 美佐は麦茶をコップから少し飲み、ママさんに問いかける。 「本当にあの子のことなにも知らないの?実は、知ってんじゃないの?」 「知らなーい。だってママさん、佐間太郎ちゃんしか興味なーいもーん」 「なにそれ……。いいけどさ」 お盆は使わずコップを両手に持ち、階段を上る。 「はい、お待たせー。あんた、このちょっと少ない方ね。いやいや、お姉ちゃん飲んでな ---------------------[End of Page 161]--------------------- いって、ほんとにほんとに……」 そこまで軽快に話していた彼女だったが、愛《あい》の姿を見て言葉を失った。 さっきまで小学生みたいだった彼女は、いつの間にか中学生ほどに成長していたのだ。 髪の毛が一段と伸び、着ていた服が七部袖になっている。胸の方も成長したようで、呼吸をするたびに苦しそうな上下運動がTシャツの下で行われている。 「……なんか食べた?答えなさい」 「え?な、なにがですか?」 声からも、幼さが消えたように思える。確かに彼女は発育していた。 「大っきくなってんじゃんよ、オモスローイ!ねね、今度は熟女行ってみようよ、熟女」 「そんなのできません!それに、あたし、大きくなったんですか?」 「なってるなってる。中学生に見える。いーね、スクール水着とか似合いそう。そうだ、いっちょ着てみる?確かあたしの昔のがね、あるはずですよ」 そう言って美佐《みさ》は麦茶を二つとも持ったまま自分の部屋に消えていった。 愛はフハーと大きなため息をつき、さっきまで見ていたカゴに視線を戻す。 彼女の視線の先は、カゴの底にあった一枚の写真に注がれていた。 「これ……誰《だれ》だっけ……」 写真の中では、今の愛と同じくらいの女の子が人形を大事そうに抱えていた。 ---------------------[End of Page 162]--------------------- 「うわ、なんかすごく大切なことを思い出しそうなのに、思い出せない……」 彼女は真剣に頭の中の記憶を手繰《たぐ》り寄せようとする。あたしは、大切ななにかを探すためにここに来たんだって、誰かが夢の中で言ってた。 見つけられなければ、それは永遠に失われてしまう。それは、損なわれてしまう。 「なんだー、なんだっけi、ここまで出てるのにー」 そう言いながら愛は太ももをボスポスと叩《たた》いた。どっから出すつもりだ。 「すごく大事なことなのに思い出せないー。うーん。なんでーもi」 大変真面目《まじめ》に悩んでいらっしゃる彼女の元に、そそくさとやってきた美佐は得意げにスクール水着を突き出した。 「はいこれドーン!どうぞ。着てみなさいよ。似合うわよー。女子中学生といえばスクール水着。これはね、常識。ブルマとか言ってるやつの気がしれんね」 どっちも似たようなものではないのだろうか。しかし、愛に反論は許されない。 スクール水着に目の前で着替えさせられ、何度かポージングまでさせられた。 「イーネッ1イーネッ1それイイネ1そういうのお姉ちゃん、グッとくるよ1」 しかし、それにもすぐ飽《あ》きたのか、「もういいや」と無愛想《ぶあいみもうつ》に眩《ぶや》くと、スクール水着姿の彼女の手を引《ひ》き台所へ連れていった。 「ほら、今からあんた、パパにその姿見せなきゃいけないから。成長しましたよーって報 ---------------------[End of Page 163]--------------------- 告しなくちゃいけないから。手土産にお弁当でも作ってあげなさい」 「え?で、でも、学校には行っちゃいけないってママが」 「いーのいーの1そういうのは、ニュアンスの問題だから。来ちゃだめかもよー、みたいなとこだから。あんまり気にしないの」 冷蔵庫から適当な食材を取《と》り出すと、美佐《みさ》は慣れない手つきで料理を始めた。愛《あい》はそれを眺めているだけだったが、「ほら1さっさと手伝う1」と言われてアタフタとしょう油と塩を手に持った(ものの、どうすればいいのかわからなかった)。 「ねえねえ美佐ちゃんに愛ちゃん。なにしてるのかしらー?」 テレビに飽《あ》きたママさんが、いそいそと近づいてくる。 「佐間太郎《さまたろう》にお弁当作ってる」 「えー1本当にーP…ママも手伝う!っていうか、ママが作る1愛情が隠し味なのよ〜ん。わっかるかな〜?わっかんないだろうなあ〜?」 そう言うとママさんは大ハシャギで玉子焼きを焼き始めた。 愛は、見よう見まねで小さな玉子焼きを焼いた。 菊本《きくもと》高校、一年生の教室。テンコは、果たして美佐に愛を任せてしまって大丈夫だったのだろうかとボンヤリ考えていた。 ---------------------[End of Page 164]--------------------- 彼女を疑うわけではないが、学校に来させないでくださいね、という約束をいとも簡単に破ってしまいそうな気がするのだ。 「ううん、そんなことない。きっと美佐さんなら、しっかりやってくれるはずだわ」 彼女は美佐を信じることにした。そう、なんといっても女神であり、佐間太郎の姉なのだ。……佐間太郎の姉。なんだか不安なフレーズである。 「はあ、大丈夫かなあ……」 そう眩《つぶや》き窓の外を見ると、体育の授業を受けている生徒が、大きなマットの上で高飛びをしていた。あー、あれ苦手なのよねー、飛べないしねー、などと思っていると、校門の陰がなにやら大変なことになっていることに気づいた。 スクール水着を着た少女が、コンビニのビニール袋を持って立っているのだ。 最初は、なにやらゴキゲンな女の子がいるものだなーと気楽に考えていたが、どうも少女の顔には見覚えがあった。しかし、記憶の中の彼女はもっと幼かったはずだ。 しかし、見れば見るほど彼女の顔が、あの、お馴染《なじ》みの、女の子に見えてきてしまう。 「そっか……成長したのか……」 テンコは佐間太郎に、そっと耳打ちをする。 「佐間太郎……。愛ちゃん、来てるよ?しかもスクール水着で」 彼が大慌《あわ》てで窓の外を見ると、確かにそこにはスクール水着姿の三つ編み少女が、プン ---------------------[End of Page 165]--------------------- ブカと両手を振《ふ》って彼にアピールをしている。 「あいつ……学校には来んなって言ったのに……。それに、またデッカくなってるし。まさか、ここまで来るつもりじゃないだろうな!来るなよ!こっち来るなよ!」 佐間太郎《さまたろう》は「ダメ1来ちゃダメよ!」という意味で大きく手を振った。しかし、その姿を見た少女は嬉《うれ》しそうな顔をして手を振り返す。 「もしかして、こっちおいでーって手を振ってるって、勘違いされてるんじゃないの?」 テンコが佐間太郎の手の動きを見ながら言った。 確かに、日本では「こっちきてください」という意味の手の動きが、海外では「あっちに行け」というふうに取《レ一》られるという話を聞いたことがある。 今のこの状況は、まさにその通りなのではないだろうか。 彼の不安は的中したようだ。愛《あい》はコンビニ袋を抱え、そのまま校庭の中にダッシュで入ってきた。 「あ、走ってきた。やっぱり誤解してたのね……」 テンコはそう言って、頬《ほお》に一滴だけ汗を浮かべた。 数分後には、授業中であるはずの教室のドアが大きな音を立てて開き、スクール水着姿の愛が登場する。 その後のことは、みなさんご存知の通りである。もし忘れてしまっているのならば、最 ---------------------[End of Page 166]--------------------- 初のぺージまで戻って頂きたい。 そこには、かなりナイスな地獄絵図が広がっていることであろう。 「ナイス過ぎるけど!姉ちゃん、あのスクール水着はナイス過ぎるけど、ナイスと同時に地獄絵図だったぞ!」 帰宅後、部屋でガリガリくんをガリガリと食べていた美佐《みさ》に佐間太郎は詰め寄る。 「だってさー。成長したから見せてあげなくちゃーって思って」 「だからって、なんでスクール水着で派遣すんだよ!あれ、お金取っても成立しそうなほど羨《、らや》ましがられたぞ!」 「中学生のスク水弁当配達?あーいいね、儲《もロつ》かりそうかも」 ガリガリガリ、とアイスを食べる音が部屋に響く。今頃《ごろ》、居間ではテンコがママさんに説教をしている頃《ころ》だろう。 「とにかくっ、もう愛に変なことさせないでくれよな」 「変じゃないじゃない。変だった?似合ってたと思うけど」 「似合ってたけど、そういう問題じゃないから!」 「でもね、佐間太郎ちん。姉ちゃん、すっごく素敵な物見つけちゃったんだけどなー」 「なに?」 ---------------------[End of Page 167]--------------------- 「これっ」 美佐《みさ》はそう言うと、手裏剣《しゆりけん》のように一枚の写真を彼に投げつけた。 それはサクッと佐間太郎《さまたろう》のオデコに刺さった(少しだけ血が出た)が、怒る気力さえなくなっている。 「なんだよこれ……思い出の写真か?」 「そうそう、思い出の写真。どう思う?姉ちゃん、驚いちった」 その写真は、佐間太郎が一度見たことのあるものだった。愛《あい》がカゴに入ってやってきた夜に、そのカゴの中から見つけた写真だ。 そこには中学生と思われる少女が写っていた。あまりの驚きの連続に、すっかりその存在を忘れてしまっていたが(そりゃ三日で赤ちゃんが女子中学生にまで育つのだから、忘れるのも無理はない)、それにはもっと驚くべき事実が写っていた。 「これ……この女の子、愛じゃねえかよ」 「そのとーりー。タノスィー。あ、当たりだ」 美佐は当たりと書いてあるアイスの棒をガジガジと噛《か》みながら笑った。 写真に写っていた少女は、中学生になった愛にそっくりなのである。最初にこの写真を見た時は気づかなかったが、今になるとそれが同一人物なんじゃないかと思うほど似ていることがわかる。 ---------------------[End of Page 168]--------------------- 「なんで愛が写真に写ってんだよ?未来写真?」 「さあね。でもね、姉ちゃん、もう一個気づいちゃったんだなー」 「なになに、お姉様、教えてください」 「じゃあこの当たり、コンビニで取《と》り替えてきて」 「後で!後でやるから1」 「ま、いっか。あのね、愛ちゃんが育った時の状況を考えてごらん」 「なに?なに?全然わかんない1」 「ちょっとぐらい考えなさいよ1」 佐間太郎は、愛が大きくなった時のことを思い出す。最初は、朝起きたら幼稚園児ほどの大きさになっていたのだ。それから、歩道橋の上で彼女を見つけた時。その時には小学生までに成長していた。そして今回、スクール水着を着用したことにより、中学生に!そうか1スクール水着が成長の原因だったのか! 「アホ。違うっての』 佐間太郎の考えに、心の声で突っ込みを入れる美佐。 「ちょっと、勝手に心の中見ないで!プライバシーの侵害ですよ!」 「あのね、漏《も》れてきてんの、勝手に。スクール水着は関係ないでしょうが。いい?あたしと一緒にいた時はまだ小学生だった。で、麦茶でも飲ましておこうかなーと思って台所《した》 ---------------------[End of Page 169]--------------------- から戻ってきたら中学生になってた」 佐間太郎《さまたろう》は、名探偵が難事件を解決した時のような調子で言った。 「麦茶か!」 「違うっ1そうじゃなくて!その時に、あの子ってば写真を見てたのよ」 「写真を?……さっぱりわからん」 「あの子はさ、なにかを思い出そうとすると成長すると読んだね、あたしは」 佐間太郎は美佐《みさ》にそう言われて、今までのことを思い出す。そういえば愛《あい》は、夢を見たと言っていた。大切なものを探していると。しかし、それがなにかわからない。成長した直後にそんなことを言い出したのだった。歩道橋で見つけた時も、思い詰めるような真剣な表情をしていた。あの時も、なにかを思い出していたのかも知れない。 「本当だ1姉ちゃん、頭いい1」 「だてに女神やってないよ。じゃ、コンビニ。行ってこい」 「それにしても……」 「無視かい」 それにしても、この写真の少女と愛はそっくりだ。だが、それでも気持ちのモヤモヤが晴れてはいかない。この二入の女の子以外に、まだ同じような顔をしている人物がいるような気がするのだ。 ---------------------[End of Page 170]--------------------- 「アイス、アイス」 いつの間にか佐間太郎の真横に立ち、アイスの棒で頬《ほお》をグリグリする美佐を無視して、彼はテンコの部屋に行った。そこでは、中学生になった愛が、テンコの洋服を着てベッドに座っていた。 「あ。パパ、ごめんなさい。あたし、パパとママに会いに行けるのが嬉しくて……」 「そんなことはいいんだ。それよりも、なにか思い出したことあるか?」 「え?思い出すって?」 「前にお風呂《ふろ》で言ってたようなこと」 「うんと……。あたしは、五日間しかここにいられない。それはなんでかわからない、誰かが決めたことなんだと思う。大切なものを探している。あと、写真の女の子……」 「これだろ?」 佐間太郎は美佐から受け取《レ曽》った写真を彼女に見せた。 「そう、この子。あたし、とても……とても……」 彼女は写真を見ながら目に涙を溜《た》めた。どういうことかわからないが、彼女は写真の女の子を探しているに違いなかった。しかし、その写真の女の子は愛自身なのではないかと佐間太郎は思う 「そうだ。愛、背中見せてみろ」 ---------------------[End of Page 171]--------------------- 「え?な、なんで?」 「いいからっ」 彼女に後ろを向かせ、シャツをめくりあげる。太陽に照らされて赤くなった肌に、黒い汚れがついていた。それは一緒にお風呂《ふろ》に入った時に見た、あの汚れだった。 しかし、先日見たものとは違っていた。薄かった色が、より濃く鮮明になっているのだ。 佐間太郎《さまたろう》は気づいた。これは汚れなどではない。なにか、文字のようなものだ。 だけど、それがなんと書いてあるのかまではわからない。 「バー。ママさんてば、全部美佐《みさ》さんが悪いって言うんだもん。そりゃないわよね……」 テンコが独り言を眩《つぶや》きながら入ってくると、目の前では佐間太郎が愛《あい》のシャツを脱がしかけているところ(のように見えた)だった。 「……パパ?っていうか佐間太郎?お話、ちょっといい?」 「誤解だ。誤解だ。誤解だ」 「いいから、殴ってから話聞きます」 その時は、三発だけだった。しかし、これがまたいつもの何倍もの威力だったのだから、攻撃というのは回数の問題ではないということがみなさんにもおわかり頂けるだろう。なんというか、暴力的な天使である。 ---------------------[End of Page 172]--------------------- 「それで、他《ゆか》にはなにもないの?手がかりになるようなもの」 顔をデコボコにした佐間太郎に、テンコが問いかける。殴ってから理由を聞くというのも、なかなかハードコアな話だ。 「うーん。他になんかあったっけ?テンコ、思い出せないかつ・」 「え、わかんないよ……。愛ちゃんは?」 「う……。あたしにもわかんない……」 三人は同時にため息をついた。テンコは、愛そっくりの少女が写っているという写真をマジマジと見つめる。見れば見るほどよく似ている。やっぱり、同一人物なのではないだろうか。 「あ……」 その時、佐間太郎がポツリと言った。二人は期待に満ちた目で彼のことを見る。 「足、かゆい」 ポリポリポリポリポリポリと佐間太郎は足をかいた。パンチは二発だった。 「あ……」 またしても佐間太郎が声を出す。 「今度かゆいとか言ったら、イワすからね!」 「違う、違う!テンコには言わなかったんだけどさ、あの病院の女の子」 ---------------------[End of Page 173]--------------------- 「が、どうしたの?」 「あの子、夢を見てるって言ってたんだ」 「夢?そんなねー、他人の夢の話ぐらい面白くない話ないよ!」 「そうじゃなくてさ。それがね、悪魔が自分をどこかに連れていこうとする夢なんだって。 だけど、それを一人の女の子が引《ひ》き止めるんだと。すぐ行くから、そっちに行かないでってお願いするんだって。だから、彼女はそれをずっと待ってるんだってさ」 「フーン。それがなにつ・だからなんなの?」 「いや、ちょっとでも参考になるかなーと思って」 なんないわよ、なるわけないじゃないの。そうテンコは言った。ね、そうでしょ、愛《あい》ちやん。しかし、彼女の方を振《ふ》り向くと、愛は目を見開いていた。 「ど、どうしたの愛ちゃん」 「あたし……同じような夢を、見た。暗い世界で、大切な物が、悪魔に取《と》られそうになるの。だけど、あたしは、今すぐ行くから、もうちょっと待ってってお願いするの」 佐間太郎《さまたろう》は偶然の一致だろうと考える。二人の間に関係性などなにもないのだ。 「じゃあさ、その悪魔ってどんなの?」 彼は少し意地悪をして言ってみた。だが、愛はハッキリと答えた。 「女の子。赤いワンピースを着た女の子」 ---------------------[End of Page 174]--------------------- 佐間太郎は、確信を持った。それだ。 「テンコ、明日は学校休むぞ。病院に行く」 「え、なんで?頭、変になったの?」 「そうじゃなくて。たぶん、愛が探してるのはあの子だ」 テンコは、目に見えて不愉快《ふゆかい》そうな顔をする。 「あの子って、いちゃいちゃしてた、あれ?」 「してねえよ1いいから。あの子に会えぱ、なにかわかると思うそ」 愛は少しだけ呼吸を荒くし、額に汗を浮かべていた。ようやく答えが見つかる、そう思って緊張してるのかも知れない。 だが、彼女にもそれがなにかわかっていないようだった。これからどうなるか、その子に会えばなにが起こるのか。 翌日に備え、三人は早く寝ることにした。時計が日付を跨《また》ぐ前に、全員で佐間太郎の部屋で眠った。本来ならばテンコの部屋で愛が寝る方がよいのだが(中学生と佐間太郎を一緒のベッドで寝かせるなんて1というテンコの意見からである)、愛自身の強い要望により佐間太郎の部屋で眠ることになった。 テンコは、さすがにそれを放ってはおけないと、彼の部屋の床に布団《ふヒん》を敷いて眠った。 「おやすみなさい」 ---------------------[End of Page 175]--------------------- 電気を消すと、すぐにテンコの寝息が聞こえてきた。よほど疲れたのだろう(佐間太郎《さまたろう》を何度も殴ることに)。しかし、一緒のベッドに入っている愛《あい》は、何度も寝返りを打って寝ようとはしない。 彼が浅い眠りの海に足を踏み入れかかったところで、海岸から愛の声がした。 「ねえパパ。眠れないの。ギュッってしていい?」 「え?ああ、いいよ」 返事をすると、愛はモゾモゾと近寄ってきて、まるで抱きマクラかなにかのように佐間太郎に抱きついた。 「はう1」 いいよ、とは言ったものの、それほど年の離れていない女の子に抱きつかれたのである。 さすがに、平常心ではいられない。 いや、しかし彼女は自分の娘なのだ。まだこんなちっこい頃《ころ》から、お風呂《ふろ》に一緒に入ったりしていたのだ。子供はすぐに大きくなるというが、まさにその通りだ。世間一般の見解とは、少し違った解釈なのだが。 「ねえパパ。聞いていい?」 少し妙な方向に行っていた思考が、愛の=言で現実に引《ひ》き戻された。 「なんだい?」 ---------------------[End of Page 176]--------------------- と、冷静な声で言ったつもりが、少しうわずってしまったようである。だが、彼女はそんなことなど気づいていない。 「パパは、なんで生きてるの?」 あまりに唐突な質問に彼は戸惑う。それは本質的であるがゆえに、難解なものだった。 「そ、そうだな……。なんていうかなあ、どっから説明したらいいんだかわかんないんだけどさ。ほら、パパって色々事情があるから」 「お姉さんは女神様なんでしょ?今日、聞いたよ」 砂糖を焦がしたような香りが愛から漂ってくる。カラメル色の肌が、佐間太郎の胸の上に乗っている。 「なんだよ、姉ちゃん言ったのかよ……。わかった、じゃあ言う。俺《おれ》、神様の息子。いや、本当に」 常識的に考えたら爆弾発言だが、彼女は驚きもしなかった。愛自身、普通の体ではないからだろうか。 「そうなんだ……神様なんだ。なんで人間の生活してるの?」 「んー。人間の生活を知るためかな。なにを考えて生きて、どうやって暮らすのか。それを知って、少しでも立派な神様になるために……生きてんじゃないかな、一応」 「なんだか、偉いね。尊敬しちゃう」 ---------------------[End of Page 177]--------------------- 愛《あい》は佐間太郎《さまたろう》の頬《ほわ》に口付けをした。そしてそのまま頬から唇を離さず、会話を続けた。 彼女が喋《しやぺ》る度に、頬の上で唇が小さく動くのを感じる。いやいや、あくまで愛は佐間太郎の娘なのである。決してこれは、軽いエロシーンなどではない。 「パパあ。あたしはね、たぶん、明日会う子のために生きてるんだと思う。なんだか、そんな気がしてきた」 「なんだそれ。どういうことだ?」 「なんでもない。おやすみなさい」 愛の唇が頬からゆっくりと離れる。確かに離れたはずなのに、そこだけがずっと熱くなっていて、いくら経《た》ってもキスをされたままでいるような気がした。 彼女は相変わらず佐間太郎を抱きしめているが、まだ眠ってはいないようである。 「あ、そうだ。愛、思い出した。これ、お前のカゴに入ってたんだけどさ」 彼はふと思い出し、ベッドの枕元《まくらもと》にある棚から一枚の紙を取《と》り出した。 「電気消してるから暗いけど、月明かりで見えるだろ?ほら、これ。お前の名前が書いてあるんだ。たぶん、母親が書いたんだと思うけど」 ピンク色をした長方形の紙には、ボールペンで文字が書いてあった。 「また会えるといいな。愛」 彼女はその短い文面を何度も何度も繰り返して読んだ。あまりに真剣な表情だったので、 ---------------------[End of Page 178]--------------------- 佐間太郎は声すらかけられない。 しばらくして、愛はそれを佐間太郎に返した。 「あのね。あたしわかった。全部わかった。そっか、そういうことなんだってわかった」 「なんだよ、どういうことだよ?」 「ううん。明日わかると思う。おやすみなさい」 「おい……」 愛は、佐間太郎を強く抱きしめた。これが最後の夜かも知れないと思わせる、そんな切実な抱擁《ほうよう》だった。 「パパ……あのね。あたし、愛じゃないんだ」 「え?」 寝言のように自然に、彼女は言った。 「あたし、愛ちゃんを探しにきたの。友達。ずっと待っててくれてる、お友達」 「どういうことだよ?愛、答えろよ」 しかし、それ以降は彼女の寝息しか聞こえてこなかった。 スゥスゥという呼吸音が、規則的に繰り返される。どうやら本当に眠ってしまったらしい。彼は仰向けになっていたが、なんとなく寝苦しくなり、彼女の手を振《ふ》り解《ロど》かないように反対側を向いた。 ---------------------[End of Page 179]--------------------- 「“ンーツ・:・:」 すると、眠っていたはずのテンコと全力で目が合った。 怖い。床に寝ている彼女は、ずっとこっちを見ている。 しかも瞳孔《どうこう》が開いてる。怖い怖い。 「エロ」 「エロじゃなくて。愛《あい》が勝手に……」 「愛ちゃんは愛ちゃんじゃないんだね。じゃあ、誰なんだろうね」 テンコは彼から視線をそらし、そう眩《つふや》いた。今までのことを、全《すベ》て聞いていたようだ。 「さあな。わかんねえ。でも、明日、なにかが変わるのかも知れない。終わるのかも知れない。もしかしたら始まるのかも。どっちにしろ、なんか起こるだろうよ」 「愛ちゃん、いなくなっちゃうのかな」 テンコは少し鼻声だった。きっと泣く。すぐ泣く。佐間太郎《さまたろう》にはわかった。 「ぐす。あたしね、愛ちゃんが来てから、ちょっと楽しかったんだ。家族ができたみたいで……ぐすん」 ほら泣いた。予想通りだ。 「なに言ってんだよ。俺《おれ》もオフクロもオヤジも、姉ちゃんにメメだって、家族じゃんか」 「ううん、家族みたいだけど、家族じゃないの。だってあたし、天使だもん。神様とか女 ---------------------[End of Page 180]--------------------- 神様じゃないもん」 ズルズルズル、と鼻水をすする音がする。相変わらず、汚い泣き方をするやつだ。 「あたし、ママに会ったことないもん。一回も。天国にいる時も、ずっと佐間太郎を守る役目だったし。あたしって家族いるのかな?ママとかパパ、いるのかなつ・いなかったらどうしよう。もし佐間太郎が神様になって、あたしのこと必要としなくなったら、あたしに帰る場所ってあるのかな?いっつもね、そう考えると不安になるの。だから、愛ちゃん、本当に自分の子供みたいで楽しかったの。彼女は自分の元から消えない、家族なんだって。それなのに、やっぱりいなくなっちゃうんだ」 最初、愛を拾った時、妙にテンコが執着を見せたのにはそんな理由があったのだ。 テンコは温かく明るい神山《かみやま》家の家庭が、自分の物でないと思っている。 「バカなこと言うな。そんなもん、本当の家族になる方法なんていくらでもあるだろ」 「……冷たいんだね。ないよそんなの。あたしはずっと、他人だもん」 佐間太郎にとっては、結構思い切った発言だったが、テンコは気づかなかったようだ。 そんなことで愛のキューピッドと同種類とは聞いて呆《あき》れる。 「他人でも家族になれるだろ。考えとけ。おやすみ」 「ぐずん……おやすみなさい」 それからしばらく、テンコは泣いていた。 ---------------------[End of Page 181]--------------------- そんな中で佐間太郎《さまたろう》は、いや、でも、今日の俺《おれ》は頑張ったよ、と自分に七十点をあげていたのだった。 そんな七十点の彼は、眠ろうにもまったく眠ることができなかった。 明日のことが気になるというのもあるし、若い女の子二人と同じ部屋に寝ているというのもある。 「あi!眠れん1」 佐間太郎はそう言うと、ガバッと起き上がり机に向かった。 そして、残りの夏休みの宿題を片付けてしまおうと、ノートを開いた。 もうすぐで宿題も終わる。それに、他《ほか》のことも。 彼は朝がくるまで、ずっとカリカリとシャーペンを動かし続けるのだった。 翌日、目を覚ますと佐間太郎は絶句した。 発育していたのだ、愛《あい》が。しかも、信じられない姿に。 「わああああああああああおはようございますうううう!」 驚きの余りに絶叫しながらも、律儀に挨拶《あいさつ》をする。その声に、目を腫《は》らしたテンコも目を覚ました。 「もー、なに朝から騒いでん……きゃああああああああ!」 ---------------------[End of Page 182]--------------------- 彼女も心底驚いたらしい。なぜなら、佐間太郎の隣で眠っていたのは、あの車椅子《くるまいす》の少女だったからだ。 「んう……パパ、ママ、おはよう……」 愛は目をこすりながら、そう言った。二人は「オハヨウゴザイマス……」とロボットみたいな口調で返事をする。 佐間太郎はママさんに事情を説明し、学校を休む許可をもらった。それから、少しでも愛を刺激しないようにと、三人分の食事をお盆に乗せて部屋に持ってくる。 「さあ、食え。最後かも知れないからな。あっはっはっは」 ほんの冗談のつもりだったが、テンコも愛も複雑な表情をした。彼は反省しながら、お茶をズズズズと飲む。 それにしても、どこからどう見てもあの車椅子の少女にそっくりである。 やや愛の方が健康そうに見えるが、それを差し引《ひ》いても他人の空似《そらに》には思えない。 とても静かな朝食が終わると、三人は並んで歩きながら病院へと向かった。 途中で、テンコは愛の手を握った。愛は、佐間太郎の手を握った。彼女を中心にした、一種異様な雰囲気の中で行われる行進は、なにか決意のようなものを感じる。 それがなんなのかは、佐間太郎にもテンコにもわからない。ただ、愛の心の中だけにひっそりと息づいているのだ。 ---------------------[End of Page 183]--------------------- 「パパ。ママ。あたしね、生きてる意味がちょっとわかったんだ」 誰《だれ》の返事も求めずに愛《あい》は彼女は言った。 「愛されることなんじゃないかなって思う。たぶん、だけどね」 二人が返事を戸惑っている内に、病院の敷地内へと到着していた。 車椅子《くるまいす》の少女の部屋に向かう途中、偶然にも廊下を歩いている進一《しんいら》に会った。 「うわ!なんで三人で!しかも、車椅子はどうしたのp”車椅子1」 その言葉を聞いて、改めて愛は悲しそうな顔をする。 「車椅子、なんですか?愛ちゃん……」 「へ?だって、君、車椅子だったじゃん。でも、どこもケガしてないって言ってたし、やっぱり精神的なものだったんだね。よかったよかった」 「精神的……。そうなんですか」 愛は二人の手を引き、少女の部屋へと歩いた。進一はわけがわからぬまま、その雰囲気に押されて自分の病室へと引っ込んでいく。 彼女と知り合って今日で四日目。あまりにも短い時間だった。しかし、共有するものは長さではなく密度だということをテンコも佐間太郎《さまたろう》も思い知らされていた。 できることなら、このまま愛を引っ張って家に帰りたかった。 どういうことか知らないが、彼女が傷つくのはわかっていたし、かといってどうするこ ---------------------[End of Page 184]--------------------- ともできないこともなんとなく察していた。 ようやく三階にたどり着くと、相変わらず開けっ放しになっているドアをくぐる。 病室では、車椅子《くるまいす》の少女が窓の外を眺めているところだった。 愛《あい》は二人の手をそっと離し、部屋の中を自分だけで進んだ。 「愛ちゃん……」 愛の声に、少女が体を震《ふる》わせる。左の車輪を軸にして、ゆっくりとこちらを振《ふ》り返る。 「あたしだよ……覚えてる?覚えてるよね?ずっと待っててくれたんだもんね」 愛ではない愛が、愛に近寄る。 「ルル?」 車椅子の愛が、そう眩《つぶや》いた。まるで信じられない、といった様子だ。佐間太郎《さまたろう》とテンコの娘の本当の名前は、ルルというらしい。 「うん、あたしだよ。会いたかった。会いたかったから、こんなふうになれたと思う。ずっとあたしのこと待っててくれたんでしょう?ありがとう。愛ちゃん、ありがとう」 ルルが近づこうとすると、愛は車輪をゆっくりと動かして後退した。 「どうしたの、愛ちゃん?なんで逃げるの?お友達じゃないの。なんで逃げたりするの?どうして?せっかくこうして会えたんだよ?」 しかし、愛の顔は険しくなっていく一方だ。彼女の車輪が窓際の壁に当たり、もうこれ ---------------------[End of Page 185]--------------------- 以上逃げられない、というところまで追い込まれた。 「愛ちゃん……大好き」 ルルがそう言った。燐を涙が伝う。佐間太郎とテンコは、その様子を目を離さずにしっかりと見ていた。 「うるさい!あんたなんて大嫌い1早く出ていって1」 愛はルルに向かってそう怒鳴った。彼女もまた、目に涙を浮かべていた。 「どうしたの?愛ちゃん、あたしだよ?せっかく会いに来たのに……」 鼻の頭を真っ赤にして、愛が叫《尾馳,》ぶ。その矛先《まワヒくたヘヒ》は、ルルではなかった。 彼女は、佐間太郎とテンコに向かって怒鳴りつける。 「あんたたち、なんでこんなことするのPHバッカみたい。こんなこと、あるわけないじゃない1こんなの、正気じゃないわよ。あたしをそんなにからかって面白いのPあたしのこと、そんなにバカだと思ってるの19」 「愛ちゃん……」 ルルは悲しそうな顔をした。 「愛ちゃん、パパとママのこと悪く言わないで。あたしのこと、愛ちゃんと同い年になるまで育ててくれたんだよ?」 「うるさい!こんなの悪趣味よ!帰って!今すぐ出ていって1」 ---------------------[End of Page 186]--------------------- ルルは拳《ニぶし》を握り締めて耐えていたが、ついには振《ゐ》り返ると病室から走って出ていってしまった。テンコは彼女を追いかけようとしたが、ゆっくりと愛《あい》に近づいた。 「なによ。なんか文句あんの?」 車椅子《くるまいす》に座った彼女は、睨《にら》みつけるようにテンコに言った。テンコは黙《たま》っていたが、一回だけ、愛の頬《ほお》を叩《たた》いた。 「バカはあんたじゃない」 そう言い残すとルルを追って外へ出ていってしまった。佐間太郎《さまたろう》はずっと黙っていたが、愛のベッドに近づくと、その上に座った。 「なんだかもう、全然わかんねえよ」 佐間太郎は、思った通りのことを言った。今この病室でなにが起こっているのか、さっぱり理解ができないでいるのだ。 「なんなんだよ。どういうことなんだよ。俺《おれ》には全然理解できない。なに、愛ちゃんとかルルちゃんとか。どこの国の住人より・ルルってさ。夢の国つ・わかんねえ。説明して」 愛は複雑な表情で佐間太郎のことを見ている。 「あんたさ、あたしのこと、嫌なやつだと思わないの?あんな酷《ひレロ》いこと言って」 「嫌なやつもなにも、状況がわかんないから。だから、どうしていいやら。ただ、愛が……ああ、ルルっていうらしいけどさ、あいつが悲しそうな顔をするのは納得いかないな。 ---------------------[End of Page 187]--------------------- だから、納得のいくように説明してくれよ。これがどういうことなのかさ」 佐間太郎はベッドの上で彼女に言った。愛は、車椅子の上で、じっとなにかに耐えるように黙っていた。 「だって信じられる?あたしが中学の時に、ルルはこの世からいなくなったの。それなのに、今さら出てきて。しかもあんな姿で。信じうって言う方が無理なんじゃないの?あんたとか、さっきの女が、あたしのこと騙《だま》してるって思うのが普通なんじゃないの?あたし、あんたのことなんて信じられないからね」 「え?なんで俺のこと信じるの?」 佐間太郎は、真剣な顔で愛のことを見つめる。 「君が信じるのは、俺でもなければテンコでもないよ。ルル?あいつと、君自身の心を信じるんだろ?君はなにか奇跡が起こるのを信じてたんだろ?それなのに、奇跡から逃げてどうすんだよ。起こったことを受け入れればいいじゃん。それが信じられても信じられなくても、そうなっちゃったんだから仕方ないじゃん」 彼は一気にまくしたてると、その後に「ばーか」と付け足した。その言い方があまりに子供っぼかったので、愛は思わず笑ってしまった。 「あんた、本当に変だね。世の中にはこんな変な人もいるのね。驚いちゃった」 「だって俺、神様だもん」 ---------------------[End of Page 188]--------------------- 「ははは。わかった。あんたが何様でもあたしには関係ない。でも、ちょっとだけ話を聞いてくれる?」 「もちろん」 愛《あい》は佐間太郎《さルよたろう》の近くにゆっくりと近づくと、彼の手を取《と》った。それはルルとは違う体温だったが、どちらも生きている、ということには変わりはなかった。 「あたしにはね、小さい頃《ころ》から友達が一人しかいなかったの。生まれた時からずっと一緒。 唯一の遊び仲間だった。お風呂《ふろ》も一緒、ゴハンも一緒、寝るのも一緒。ルルさえいれば、他《ほか》の誰《だれ》もいらないって思った。でもね、そういうのって、ダメね。年を取るごとに、学校のみんなからバカにされて、阻害されて、あたしは一人きりになっちゃったの。でも、ルルだけがいればいいやって思って。あの子さえいればいいって」 「じゃあそれでいいじゃん。なんでそんな怒ってんの?」 「あたしが中学生の時、あそこ、ほら、窓から見えるでしょ?あの歩道橋を歩いている時、ルルは突風に煽《あお》られたの。あたしも足元がふらついちゃって。一瞬、パニックになってね。それで気がついたら、ルルが手すりを越えて、飛ばされてた。あ、落ちるって思った。友達が、ルルが落ちぢゃうって。そう思ったら、体が勝手に動いてた。あたしは身を乗り出してルルを助けようとした。手を伸ばせば、届くんじゃないかなって思った。あとちょっと、あとちょっとで届く。もう一センチ、もう一ミリ、それで友達が助かるんだっ ---------------------[End of Page 189]--------------------- て思った。そう思ってるうちに、あたしまでバランスを崩して、道路に投げ出されたの」 佐間太郎は、彼女が前に言っていた話を思い出す。もうこの世にはいない友達。その友達をずっと待っている。常にドアを開けて、彼女がいつやってきてもいいように。 「そこからの記憶は真っ白。気がついたらこの病院。ルルのことを聞いても、誰も答えてくれない。そして、それから二度と会ってないの。あたしの唯一の友達は、この世から消えてしまったの。それから、ケガが治っても歩ける気がしなくてね。どんなに頑張っても、風でまたバランスを崩してなにかを失うんじゃないかって思うと怖くて」 進一《しんいら》が言っていた精神的なものとは、このことだったのだ。 彼女がいつも見ていたのは空ではなく、あの歩道橋だったのである。 病室の窓から、中庭から。真剣な顔で見ていたのは、歩道橋だった。 「怖いのに目が離せないの。歩道橋を見ている時が、一番安心するの。変でしょう?怖いのに安心するなんて。でもね、あそこがあたしとルルが最後にいた場所なの。だから、あの歩道橋を見ていれば、もしかしてルルがいるんじゃないかなんて……。そんなふうに思うようになったの。歩道橋が見える病室はここしかないの。だからあたし、ずっとここで生活してるの。もう四年ぐらいになるのかな。物珍しさで、色々な人が来たわ。でも、みんな勝手なことを言って帰っていくの。ナンパもたくさんね。大人しそうに見えるでしょう?それに、ドアも開けっ放しだから、男の人がたくさん。もしかしたら友達になっ ---------------------[End of Page 190]--------------------- てくれるかもって最初は思ったの。ルルの代わりになるような人がいるかもって。だけど、みんなデートしようとか、そんなのばっかり。あたしは本当にお友達が欲しかっただけなのに。だから、名札も外してもらったの。名前を呼ばれることも嫌だった」 「でもさ、君は願ってたんだろ?ルルとまた会えることを」 「うん。毎日ね。神様にもお願いした。でも、そんなことあるわけないじゃない?だから、その、信じられなくて」 「これ、知ってる?」 佐間太郎《さまたろう》は、ポケットから一枚の紙切れを取《と》り出した。ピンク色をした紙だ。 「これを見て、ルルは泣いた。俺《おれ》にはどういうことかよくわかんないけど、きっと君の気持ちが通じたんだと思うけどな」 愛《あい》は紙を受け取ると、何度もそれを読み返した。そして、確かに自分の文字だということを確認する。 「どうしてこれを?」 「知らない。ルルがうちに来た時に持ってた。俺よりも、君の方が知ってるはずだよ」 愛は、信じられないという顔で紙を見つめている。 「だって、信じることなんてできない。あたしは……」 「別に信じなくても信じてもどっちでもいいんだけどさ。ただ、君は、それでいいの? ---------------------[End of Page 191]--------------------- 今のままでいいの?」 愛は言葉を涙で詰まらせた。 「きっと今頃《ごろ》、ルルは君のこと待ってると思うよ。たぶん、君がずっと見てたあの場所で。 だってそうだろ?君に会いに来たんだもん。彼女は、君のこと信じてる。それで、ずっとずっと、待ち続けてるはずだから」 だから、ね。 「だから、ね。今度は君が迎えに行く番だと思うよ?」 愛は砂時計の砂が落ちるのを、一粒一粒数えるみたいにして悩んでいた。どれぐらい考えたのだろうか、その末に彼女は車椅子《くるまいす》を前進させた。 「有り得ないけどね。そんなこと、絶対に有り得ないけどね。でも、ルルが歩道橋にいたら、想《おも》いが通じたんだって信じる。今はまだ、信じられないけどね」 キュッキュッという音を鳴らしながら、彼女は廊下を走って行った。 佐間太郎は少しの間考えていたが、行くしかねえとベッドから立ち上がる。 すると、見知らぬ女性が病室に入ってきた。彼女は佐間太郎を見て驚いた顔をした。 「あ、すみません。神山《かみやま》と言います。僕、愛さんのお友達で」 その言葉を聞いて、彼女はもっと驚いた。 「お友達だなんて、そんな1わたくし、愛の母親です。橘《たちばな》といいます。だけど、愛にお ---------------------[End of Page 192]--------------------- 友達?そんな、信じられない……。だって、あの子、今まで一度もお友達なんて作ったことなかったんですよ、とても内向的で、優しくて、良い子なのに……。でも、その、お友達なんて、一人だっていなかったのに……」 母親の言葉を聞き、佐間太郎《さまたろう》も驚く。今まで一度も?一度も友達がいなかったとしたら、さっきまでの愛《あい》の話はなんなのだろうか。 「おばさん。今まで、一度も、一人もいなかったんですか?それは本当ですか?」 「ええ。だってあの子、ずっと家に閉じこもってばかりで。あの子からお友達の話なんて聞いたこと、たったの一度だってないんですよ?」 「うっ……マジかよ……。おばさん、ありがとうございます1俺、ちょっと用事あるんで!失礼します1」 「あ、ちょつと1」 佐間太郎は、病室から見える歩道橋へ向かった。 「ちょっと、どこ行くのP」 病院の敷地内から、ルルは真《ま》っ直《す》ぐ、ある場所に向かっていた。テンコが声をかけても返事もせずに、もくもくと進んでいる。しばらくすると、交通量の多い道路へとたどり着いた。その交差点には、大きな歩道橋がかかっている。 ---------------------[End of Page 193]--------------------- ルルは迷わずに階段を進み、最後まで上りきると橋の中央部分で足を止めた。 テンコも同じように歩道橋の上に立ち、黙《だま》り続ける彼女のことを見守っている《ヘ》。 ルルは、歩道橋から見える病院の窓と、川のように真下に流れる道路を交互に見ていた。 そして、静かに、ゆっくりと、テンコに向かって言った。 「ここで待ってれば、きっと自分がルルだって愛ちゃんは信じてくれる」 テンコにはそれがなんのことかわからなかったが、今はただルルのしたいようにさせるしかない。 「きっと愛ちゃんは来てくれる。ここに来てくれる」 これからなにをするつもりなのだろうか。わからない。ここで待っていて、本当に愛はやってくるのだろうか。しかし、テンコにはどうすることもできない。ただ、時間が過ぎるのを待つだけだ。 「ルル1」 苛立《いらだ》たしいほどの時間が過ぎた後、歩道橋の下から声が聞こえた。低い手すり越しに下を見ると、階段の一段目に愛が車椅子《くるまいす》でやってきていた。 「愛ちゃん……」 愛はルルを睨《にら》みつけている。 「ルル。あたし、あんたのこと信用してないからね。これが現実だなんて思ってないから ---------------------[End of Page 194]--------------------- ね。あたしは、絶対にこれが本当の世界だなんて信じない!」 ルルは悲しそうな目で愛《あい》を見る。 やっぱり、彼女は自分のことを信じてはくれないのだ。 「だってそうでしょ?四年前にいなくなったあなたが、そんなふうに歩いて、話して、それで、そんなふうに、生きてるわけないじゃない1バカにして!こんなの、絶対に─夢かなにかなのよ!だから、あたしは、信じない!こんな世界は信じない!」 「愛ちゃん……。やっぱり、信じてくれないの?」 ルルはボロボロと泣き始めた。まるでドロップみたいに彼女の涙が落ちていく。 「あたし、本当に愛ちゃんに会いに来たんだよ!本当だよ1」 車が大量に道路を行き来している。その排気ガスと騒音の中で、二人は出せるだけの声を振《ふ》り絞ってなんとか会話を続けた。 「ルル、見てて1こんなの夢だってあたしが証明して見せるから!ここは夢の世界なんだから。あんたはインチキしてるんだから!だから、あたしだってインチキする!」 そう言うと彼女は車イスから立ち上がり、その右足を階段の上に乗せた。 「愛ちゃん1なにするのP愛ちゃん、歩けないんでしょつ・」 「ルルが生きてて、あたしと話せるような世界だったら、あたしだって歩ける!あたしだってインチキする!」 ---------------------[End of Page 195]--------------------- 彼女の足は、極端な運動不足により信じられないほど細くなっていた。その心細い足で、一歩一歩、ゆっくりと階段を上っていく。 「愛ちゃん、無理しないで!あたしが行く1」 「いいの、ルルは来ないで……。これは、あたしの問題だから。だってそうでしょ、あんたが生きてるんなら、あたしだって歩ける……」 しっかりと手すりに掴《つか》まりながら、彼女は一歩ずつルルへ近づく。強い風が吹き、長い髪の毛が乱暴に彼女の上でなびいた。それでも愛は、震《ふる》える両足を使って、ゆっくりとだが確実にルルに近づく。 「愛ちゃん……」 「インチキよ……こんなのニセモノだもの。でも、それでもなんでも、あたしはルルに会いたい1あの頃《ニろ》みたいに一緒にいたい!いつまでもお友達でいたいの!」 愛はバランスを崩し、膝《ひざ》から階段の上に倒れ込んだ。テンコは驚いて彼女を助けようとしたが、ルルはそれを止めた。 「ママ。ごめんなさい。見ててあげて」 「でも、あんなの無茶よP」 「ううん。だってあたしは信じてるもん。愛ちゃんのこと。ここで、待ってる」 愛は涙を流しながら、体勢を立て直し、ゆっくりとルルへ近づく。あと十段ほどで階段 ---------------------[End of Page 196]--------------------- は終わる。だが、一歩一歩がなかなか前に進まない。あとたった十段越えるだけで、ルルの元へいけるのに、彼女は動けないでいる。 「ルル。あたしね、怖かった。夢の中に悪魔が出てくるの。もう友達もいないし、あんたは歩けないんだから、死んじゃえばいいのよって言うの。でもね、いつもそれをルルが止めてくれたの。まだダメ。もうちょっと待って、今すぐ行くからねって、ルルが言うの」 彼女は一段だけ、階段を上った。 「だからあたし、ずっと待ってた。ルルが本当に帰ってきてくれるような気がして、ずっと待ってた」 そして、また一歩。もう一歩。ゆっくりと、時間をかけて彼女は進む。 「あたしもね、愛《あい》ちゃんのことずっと考えてたんだよ。愛ちゃんがね、苦しんでいるのがわかるんだ。それも、あの時はあたしを助けるために、こんなことになって。早く会いに行きたいってずっと思ってたの。愛ちゃんが待ってくれてるのも知ってたんだから1」 「あたしはずっと待ってた。それで、ようやくルルが来てくれた。今度はね、待ってるルルを、あたしが、迎えに行く番なんだよね……、きっと、そうなんだよね……」 愛は最後の力を振《ふ》り絞って、ようやく階段を上り終えた。ルルは彼女になんて声をかければいいのかわからなかった。ただ、ありがとう、そう伝えたかった。 あたしのことを信じてくれてありがとう。 ---------------------[End of Page 197]--------------------- この世界がにせものだと思っても、あたしのことだけは信じてくれて。 ありがとう。 「ルル……」 その時、愛は大きくバランスを崩した。あっという間に彼女の体は、歩道橋の外へ投げ出される。 「愛ちゃん!」 ルルは反射的に走り出し、彼女を助けようと空中へと飛び出した。 二つの少女の影が、空を背に重なる。 「きゃあああああ!」 テンコは見ていられなかった。目の前で、二人の女の子が落下していくのだ。 このままではアスファルトに叩きつけられてしまう。 二人の影は、スローモーションで地面に近づく。テンコは目を手で覆い隠した。 そして数秒。大量の車のクラクションが歩道橋に向かって鳴り響いた。その音は、まるで悲鳴のようにも聞こえてくる。彼女は恐る恐る地面を見下ろした。 すると、そこに真っ白い塊が見えた。一瞬なにかわからなかったが、よく見ると、それがマットレスだということがわかった。さらに、マットレスの上には白いシーツに包まった愛とルルが倒れている。 ---------------------[End of Page 198]--------------------- 「なに、これ、どういうことP”」 テンコは急いで階段を駆け下りると、倒れているのはその二人だけではないことがわかった。彼女たちのすぐ近くで、佐間太郎《さまたろう》と進一《しんいち》が倒れ込んでいた。 佐間太郎と進一は、マットレスを道路に置き、さらにシーツを大きく広げて彼女たちが落ちても大丈夫なように待ち構えていたのだった。 落ちてきた愛《あい》とルルを、二人はシーツを広げて受け止めた。広げたシ!ツの中心に二人は落ち、衝撃はほとんど吸収される。その下にはマットレスがあったので、ケガをすることもなく道路へと着地した。 しかし、シーツに落ちた衝撃により、佐間太郎と進一には大きな負荷がかかったようだ。 二人が助かったのを確かめると、ヘロヘロと腰砕けになってそのまま地面に倒れた。 二人は腰を抜かしながらも、ちょっと得意そうにこう言った。 「なあ進一、ちょっと今の、奇跡っぼくなかった?」 「うん、ちょっとだけ、な。う、安心感からゲロ出る」 「出すな1我慢しろ1我慢!」 テンコの体から力が抜ける。会話のバカさかげんと、愛とルルが助かってよかった、という二つの理由からである。 「おー、兄ちゃんやったなー1きっと惚《ほ》れられるぞー!」 ---------------------[End of Page 199]--------------------- 「ほんとだほんとだ、かっこよかったぞー1」 声の方を見ると、交差点の中央などに、おじさんたちが立っていた。 彼らはギプスをはめ、松葉杖《まつばづえ》を突きながら、車がこないように道路を封鎖していた。 「テンコちゃん。あれ、俺《おれ》と同室のオヤジ連中。結構、いいやつでしょり・」 そう言うと進一は、目をグルグル回して気を失ってしまった。 「テンコ、俺、ちょっと神様っぼかった?人、救ったでしょ?」 と言って、佐間太郎も同じように白目を剥《む》いて倒れた。 テンコは階段を上る愛に夢中で気づかなかったが、あの時からみんなが協力して万一の時に備えていたのだった。 「なんだ、佐間太郎も進一も、かっこいいじゃん……」 テンコが涙ぐむのを見て、おじさんたちがガッバッハと笑った。 道路上では、トラックがやかましくクラクションを鳴らし続ける。いきなりパジャマのおじさんが路上に仁王《におう》立ちしてるのだから、当たり前のことである。 テンコには悲鳴に聞こえたクラクションが、今ではみんなを祝福しているようにさえ思えるのだった。 「なんだi、佐間太郎、カッチョよかったよi」 ---------------------[End of Page 200]--------------------- 病院からの帰り道、テンコはやけに親しげに佐間太郎《さまたろう》の腕にからみついている。 「いや、キモいから。お前がだけじゃなくて、普通にゲロ出るから。女の子二人って、受け止めるとめちゃめちゃ重いのな。死ぬかと思つた」 「大丈夫だよー、だってあんた、神様なんだし」 「まあね。神様だしねー」 「それにしてもさ、佐間太郎」 「なに?」 「あの二人、置いてきちゃってよかったの?」 佐間太郎とテンコが言ってるのは、愛《あい》とルルのことである。二人は彼女たちを病室に残したまま、挨拶《あいさつ》もせずに帰ってきてしまったのだ。 「わかんねえ。でも、これ以上関わっても、なんだかねーだし。それに、意味わかんねーんだもん。おばさん、友達いねえとか言うしさ」 「え?なにそれ?誰《だれ》、おばさん?」 「あ……もしかして……」 佐間太郎はなにかを思いついたようで、ポケットの中から写真を取《レー》り出した。 そこには、中学生時代の愛が写っている。とても幸せそうな笑顔だ。 「あi、ちょっとわかったかも」 ---------------------[End of Page 201]--------------------- 「なになにP”どういうこと1テンコにも謎《なぞ》解きプリーズ1」 「ああ、寝てからな、寝てから。んーでも、そっれにしても、やっぱりアイツ、どっかで見たことあるような気がするんだよなあー」 「なんで1なんでよ1教えなさいよー!グウでパンチ1」 「あふう1」 駅前の商店街には、二人の声が響き渡るのだった。……迷惑。 歩道橋の見える病室。すでに愛はベッドから起き上がっていた。いつも大事そうにマクラを抱えていたが、今日はベッドに置いてある。 愛はルルの寝ているベッドに潜ると、彼女を強く抱きしめた。 「愛ちゃん……」 ルルは小さな声で愛に言う。 「ごめんね、迷惑かけちゃって。あたし、愛ちゃんを元気づけようとしただけなのに」 「ううん。そんなことない。ルルはあたしに勇気をくれたから。さっきね、ちょっと眠ってたんだけどね、もう嫌な夢、見なかったよ。ぐっすり眠れたよ」 「そっか。それはきっと、愛ちゃんが頑張ったからだよ」 「そうかな」 ---------------------[End of Page 202]--------------------- 「そうだよ」 二人の呼吸は、ほぼ同時だった。まるで双子のようにさえ思える。 「ルルちゃん、背中見ていい?」 「うん、いいよ」 愛《あい》は、シャツをめくり上げ、ルルの背中を見た。そこには拙《つたな》い文字で「たいせつなおともだち」と書いてあった。今まで黒い汚れのようだったものが、今ではハッキリと文字になっている。 「あたしが書いたの残ってるんだね。ルルは、本当にルルだったんだ」 「そうだよ。あたしは、本当にルルなんだよ」 「どうしてあたしに会いに来れたの?」 声こそ普通だったが、愛は涙をポタポタ流していた。首に当たる熱さでルルはそれがわかっていたが、あえて言わないでいることにした。 「愛ちゃんが、会いたいって書いてくれたから」 「そっか。七夕《たなばた》のお願いって、こんなに時間かかるんだね……」 「神様って本当にいるみたい。あたしをこんなふうにしてくれたのが、大きい神様。それで、さっき落ちた時に助けてくれたのが、小さい神様。かな」 話していると、とても気分が落ち着いた。二人はベッドの上で、溶け落ちるような感覚 ---------------------[End of Page 203]--------------------- を味わった。今までの自分は、半分だけをどこかに置いてきて、空っぽのまま生きてきたようだった。それがお互いに会ったことにより、ようやくひとつになれたのだ。 「ルル、消えちゃいそう。なんとなくそう思う」 「うん、あたしもそう思う。明日の朝にはいなくなってるよ。もう、役目は終わったもの。 あたしが生きてる理由は、それなんだもん」 「あたしの中に、ルルが入ってくるのがわかる。すごくあったかい気持ちになれる」 「愛ちゃんの中に、吸い込まれていくのがわかるよ。とても幸せ」 「朝まで、一緒に寝ようね。そしたら、もう起きても平気。なにも怖くない」 「そうだね。愛ちゃん、怖がりだからね。一緒に寝てあげるね」 「うん。そうして」 二人は指を絡め合い、強く抱きしめ合った。 「そーれにしても、あの娘《こ》がいなくなってせいせいしたわねー!これからは佐間太郎《ミロまたろサつ》ちゃんは、ママさんだけのものですからねー!はい、ラブ太郎ちゃん、ママさん特製のすき焼きよー!」 神山《かみやま》家の食卓では、愛(本当はルルだけど、ここではそう呼ばせてもらうNE)がいなくなったことにママさんが大喜びしていた。 ---------------------[End of Page 204]--------------------- どうやら、佐間太郎《さまたろう》に近づく女の子は、誰《だれ》であろうとムカつくらしい。 妙にウキウキの彼女を横目に、佐間太郎とテンコは少々落ち込んだような顔をしている。 美佐《みさ》はそれに気づいていたが、黙《だま》ってすき焼きをパクパクと頬張《ほおば》る。 たったの数日だったが、二人にとっては大忙しな毎日だったのだ。彼女がいなくなってしまってからは、しばらくは寂《さび》しい日々が続くだろう。 「でもそれもすぐ慣れる。そんなもんじゃないの、人生ってさ」 美佐の独り言に、メメだけがコクンと頷《うなず》く。ママさんは「なーに?あらや:ね!なーに1あらやーね!」と、全然嫌じゃない感じの笑顔で繰り返す。 「ごちそうさま」 佐間太郎は食事にほとんど手をつけず、席を立ってしまった。 「あら1佐間太郎ちゃん!どうしたの1食欲ないの?あーんしてあげようか?フーフーしてあげようかP」 「あたしも、もういいです」 部屋へと向かう佐間太郎を追って、テンコも二階へと行ってしまった。ママさんは「もう!なによ!」と言って二人の残したすき焼きをムシャムシャと食べるのだった。 佐間太郎は部屋に戻ると、ベッドに腰掛けた。ドアがゆっくりと開き、テンコも入ってくる。 ---------------------[End of Page 205]--------------------- 「入って、いい?」 「いつもはそんなこと聞かないくせに」 「ばか」 テンコは部屋に入ると、佐間太郎の真横に座った。その距離が余りに近かったので、彼はドキッとする。彼女にとっては深い意味はないのだろうが、二人きりの部屋で間近に座られると、いくらテンコとはいえ緊張してしまうのだ。 「佐間太郎、お疲れ様。いろいろ大変だったね」 彼女はいつもより落ち着いたトーンで言った。佐間太郎は、曖昧《あいまい》に頷く。 「二人が歩道橋に行った時は、どうなるかと思ったけどさ。あんたのお陰でなんとかなったし。あの時はよかったーって喜んでたけど、愛《あい》ちゃんがいなくなってみると、やっぱり寂しいね」 そう言った後に「あ、ルルちゃんか」とテンコは言い直した。 「お前、あいつのこと可愛がってたからな。余計そう思うんだろうな」 「佐間太郎だってそうじゃん。なんだかんだ言って、結構可愛がってたんじゃない?」 テンコが髪の毛をかきあげると、アクセサリーから小さな金属音がした。 「あの子、家の前にカゴに入って落ちてたじゃない?なんだかさ、自分のこと思い出しちゃって。あたしも拾われたってことになってるから。だから他人みたいな気がしなかっ ---------------------[End of Page 206]--------------------- たんだよね」 彼女は、部屋の壁に向かって語りかけるように言った。 「そっか。でもまあ、お前には家族がいるじゃねえかよ」 「……ちょっと違うじゃない。ママさんは本当のママさんじゃないし。パパさんだってそうだし。だから、なんかね、ちょっとだけ寂《さび》しかったんだよね」 それに、と彼女は続ける。 「それに佐間太郎《さまたろう》ってば、久美子《くみこ》さんとのことがあって以来、あたしに冷たかったし……。 キスまでしておいて……酷《ひど》いって……思った」 テンコの声は、次第に消え入りそうになっていった。久美子とは、夏の初めの頃《ころ》に佐間太郎が好きになった女の子の名前である。 色々あって、その頃に佐間太郎とテンコはキスをしたのだ。頬に、だが。 「あたしのこと、嫌いになったのかと思った……。一人ぼっちになっちゃうのかなって思ったよ」 「ばっか、そうじゃねえよ」 「じゃあ、なんで冷たくしたの?なんだか、あたしのこと避けてるみたいで。わざとでしょう?どうしてよ。言ってみてよ」 佐間太郎は、散々迷ったあげく、手を伸ばして彼女の肩を抱いた。その瞬間、テンコは ---------------------[End of Page 207]--------------------- ビクッと体を震《ふる》わせたが、同じように散々迷ったあげく身を預ける。 「俺も色々考えたんだ。一人前の神様になるにはどうしたらいいかって。そしたら、いつまでもお前に面倒見てもらってるわけにもいかないって思ったんだよ」 「……うん」 「だから、なるべく一人で色々なことをするようにしてたの。それだけ」 テンコは今にも泣き出しそうな瞳《ひとム》で、彼のことを見上げた。 「それだけつ・本当にそれだけ?嫌いになったわけじゃない?」 すぐ近くにテンコの顔があった。大きな瞳が涙で揺れている。 「ああ、それだけだよ」 「でも、じゃあさ、あたしってばいらない子になっちゃうの?佐間太郎にとって、不必要な天使になっちゃうの?」 「そうじゃねえだろ」 佐間太郎は涙の溢《あふ》れるテンコの瞳に、指を当てた。 温かい涙が、指を伝って零《こぼ》れ落ちる。 「そうじゃなくて。俺が一人前になったら、またお前のことが必要になると思う」 「なにそれ、どういうこと?」 「それは……」 ---------------------[End of Page 208]--------------------- 「それは?」 それは、なんなのだろうか。自分はこれから、なにを言おうとしているのだろうか。 佐間太郎《さ雲たろう》の頭の中は、色々な言葉が台風のような思考に吹き飛ばされて混沌《こんとん》としていた。 その沈黙を、テンコは静かに待っている。 しばらくしても、彼の頭の中にはなんの答えも出なかった。それが今の正直な気持ちなのかも知れない。 ただ。 二人は見つめ合っている顔が少しずつ近くなっていくのを感じていた。まるで惑星が引力で引《ひ》き寄せられるように。ゆっくりと、ごく自然に唇と唇の距離が近づく。 お互いの気持ちは霧の中にある。まだ指を伸ばしても届きはしない。届いたとしても、掴《つか》むことはできない。 しかし、今はこんなに近くで見つめ合っている。とてもとても近くで見つめ合っている。 鼻と鼻がぶつかりそうになる。お互いの吐息がくすぐったく感じられる。 「家族が欲しいって、お前、言ったよな」 その言葉を選んだことが、正しいかどうかは佐間太郎にはわからなかった。 だが、間違っていたとしても、それしか今の彼には言うことができないのだろう。 テンコはゆっくりと目を閉じた。いつになったら止まるのかわからない涙が、頬《ほお》の上を ---------------------[End of Page 209]--------------------- 滑り落ちていく。 「俺《おれ》もよくわかんないんだけどさ。たぶん、俺たちは家族になるんじゃないかと……」 佐間太郎も目を閉じる。 「思う」 唇と唇が、触れ合いそうな距離まで近づく。 その時、シュルルルルルと妙な音が小さく聞こえた。 佐間太郎は気になって、少しだけ目を開ける。 すると、彼女の頭から薄っすらと蒸気が染み出していたのだった。 「あ……」 次の瞬間。ピィィィィィィィィィィという大きな音と共に、沸騰《ふつとう》したてのやかんのような湯気が噴出した。テンコは自分でもその煙に驚き、閉じていた目を開けてしまう。 「出ちゃった……」 「……ぷ。だはははははははは1」 佐間太郎は、近づいていた顔を遠ざけ、大声で笑い出した。 「なっP…ちょ、なんで笑うの1」 テンコは頬《ほお》を大きく膨《ふく》らませ、必死で抗議する。目は涙目だし、頬は赤くなってるし、頭からは湯気。そんな女の子にキスなどできるであろうか。 ---------------------[End of Page 210]--------------------- 「だって、そんな湯気出さなくても。あははは」 「ひつどーい!出したくて出してるわけじゃないんだからね!」 「あははは!か、勝手に1勝手に湯気が1」 「もー!なによ!」 テンコも自分が雰囲気を壊したことをわかっているので、それ以上は強気にはなれなかった。せっかくのファーストキスのチャンスを、ふいにしてしまったのだ。 「ひひひ、もういい。今日は中止。だってギャグにしかなんないもん」 「わかったわよ!もういいです!じゃあね、佐間太郎《さまたろう》なんて嫌いだからね1」 そう言いながらテンコは立ち上がると、自分の部屋に戻ろうとする。それを、佐間太郎は彼女の手を掴《つか》んで引《ひ》き止めた。 「あ、ごめん、ちょっと待てよ、待てって」 「な、なによ!もういいの!帰る1部屋に帰る!」 「待ってってば1そんな怒ることないだろ1」 「うるさいな、離してよ1」 佐間太郎は、テンコの手を強く引いた。彼女はバランスを崩す。 そして、そのまま彼の上に倒れ込むような形になった。 佐間太郎の目に、さっきよりもずっと早いスピードでテンコの顔が近づいてくるのがわ ---------------------[End of Page 211]--------------------- かった。そして、彼女の唇が彼の唇にぶつかった。 それは、事故のようなものだったのかも知れない。しかし、二人にとっては、確かにキスだった。わずか0・1秒ほどのキスだった。 もしかしたら、世界で一番短いキスなのではないだろうか。 佐間太郎はすぐにテンコから離れると、顔を真っ赤にしてベッドの一番隅に座った。 「なに……今の……なんなのよ」 テンコの湯気は、あまりの驚きでピッタリと止まっていた。 「今のキス?」 「違う1キスじゃない1事故だろ1事故1」 「事故……。でも……今、唇が……」 「触れてない1ことはない1でもキスじゃないそ!つうかお前、湯気が止まってんぞ。さっきまでプシュプシユしてたのに」 「だって、ビックリしたから……」 「詰まってんのか」 そう言うと、佐間太郎は黙《だま》ってしまった。必死に言い訳をしてみたが、誰《だれ》がどう見てもさっきのはキスである。しかも、記念すべきファーストキスである。 ああ、テンコとキスをしてしまった。明日から、どんな顔をして彼女に顔を合わせれば ---------------------[End of Page 212]--------------------- いいのだろうか。 佐間太郎《さまたろう》が混乱しているのと同じで、テンコもまた戸惑っていた。 しかし、その理由は彼とは違っていた。 なに、今のキスPあたしのファーストキスって、事故なのP…なにそれ!返してよ!もっとロマンティックなのがいーのよ1もう、なんなのP 「あi、もう!これってなんなのよi1どんな状況なのよー1」 テンコが大声を出しながら手を振《ふ》り上げると、それまで溜《た》まっていた蒸気が一気に噴き出した。 ボフンッ。 という大きな破裂音がした。まさに、詰まっていた蒸気が爆発して飛び出た感じだった。 佐間太郎はそれを見て、思わず笑ってしまう。 「あ11ー ひどいーー−一いいです、もういいです、寝ます、おやすみなさい1」 テンコは大きな音を立ててドアを閉め、部屋から出ていってしまった。 佐間太郎はタオルケットの中に潜って寝ようとしたが、今夜は眠れる気がまったくしなかった。 ちなみに、爆発の時に吹き上がった煙は、佐間太郎の部屋の中でハートの形になった後に消えたが、二人ともそんなことを気にしている余裕などなかったのだった。 ---------------------[End of Page 213]--------------------- エピローグ神様の書斎 佐間太郎《さまたろう》は、自室のベッドでぼんやりと天井を眺めていた。 昨日まではここに、小さな女の子がいて、気持ちよさそうに寝息を立てていたのだ。 たった数日とは言え、今までに味わったことのない体験をした。 親になる気持ちというのは、ああいうものなのだろうか。自分の子供でないにしても、とても強い愛着を感じていた。彼女の瞳《ひとみ》が、指先が、そして声が彼の頭の中に蘇《よみがえ》る。 それにしても……。 「絶対これ、オヤジが絡んでるよなあ……」 佐間太郎は起き上がると、廊下をトトトトと進む。途中でコップに入れたパイナップルジュースを持ったメメとすれ違う。 「なあメメ、オヤジってどこにいんの?」 「あっち」 彼女はコップを両手で持ったまま、一階を示した。それは、パパさんとママさんの寝室だった。 「さんきゅっ一 ---------------------[End of Page 214]--------------------- 彼はそう言うと、階段を下り、夫婦の寝室へと向かった。 六畳ほどの和室には、タンスなどが置いてあり、とくに変わった様子はない。 しかし、佐間太郎は「なんか怪しいな」と直感で思い、押入れのフスマをガバッと開けた。そこには布団《ふとん》などは入っておらず、古ぼけた木製のドアが一枚、粗大ゴミのように立てかけてあった。それには貼《は》り紙がしてあり、パパさんの手書きの文字で「天国への扉」 と書いてある。 「なんだよ、こんな妙なところから行けるもんなのか、天国って……」 彼はゆっくりとドアを押し開けた。すると、その先はもう世田谷《せたがや》にある神山《かみやま》家から果てしなく離れた、雲の上の世界だった。 佐間太郎は雲をゆっくりと進んだ。とくにどこに行けといった類の立て看板はなかったが、フスマが怪しいと思った時のように、なんとなくこっちに進めばいいのだろうなという気がしていた。 案の定、しばらく進むとそこにはさっきと同じように、一枚のドアが置いてあった。 そのドアを開けると、学校の図書室のような、校長室のような、懐かしく思える紙の香りがした。 中では、窓際でパパさんが釣りをしているところだった。佐間太郎には、雲の上からなにを釣っているのかわからなかったが、パパさんは外に向かって釣り糸を垂《た》らし、フンフ ---------------------[End of Page 215]--------------------- ンと鼻歌を歌っている。 彼はゆっくりとパパさんに近づき、確認をするような口調で言った。 「なあオヤジ。今回のことって、全部オヤジが仕組んだことなんだろ?俺が一人前の神様になるように、こういうことしたんだろ?」 佐間太郎《さまたろう》は至極真面目《しごくまじめ》な調子で言ったが、パパさんは釣りを続けながらあっけらかんとした調子で答える。 「うん?全然。全然そんなことないよ。チョーフトゥー」 「嘘《うそ》つけよ。超普通なんて、普段使わない言葉使ってさ」 「いやいや、本当だって。なに、パパさんのこと信用できない?ちょっと悲しいな」 パパさんの白いランニングには、汗のシミができていた。楽そうに見える釣りだが、結構な重労働らしい。よく見てみれば、腕や額にも玉になって汗が浮かんでいる。 「なんだよ。なに釣ってんだよ?」 「え?これ?短冊。そうだ、佐間太郎もちょっと見てごらんよ」 なぜか嬉《うれ》しそうにオイデオイデをするパパさん。少しだけ注意しながら(彼が嬉しそうな顔をした時は、ろくなことがない)近づく。 窓枠から顔を出し外を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。 七色に光る短冊が、上空からこの書斎に向かって必死でたどり着こうと泳いでいるのだ。 ---------------------[End of Page 216]--------------------- その姿は鯉《こい》の滝登りにも通じる、ある種の迫力さえ感じてしまう。 短冊の中の一枚が雲を突き抜け、窓の外に流れている透明な川の底までやってきた。 空の上に流れている上に透明なので、どこからが底でどこからが水面なのかさえわからない川を必死で泳ぎ、少しでも窓へ近づこうとはためいている。 佐間太郎はその迫力に気圧《けお》されながら、隣で汗をかいて竿《さお》を握っているパパさんに問いかける。 「なにこれ。天の川?なんでこんな季節外れに?」 「え?佐間太郎は、願いごとに季節が関係あると思ってるの?」 あまりに率直な質問に、彼は思わず言葉に詰まってしまった。 「メメちゃんが来た時はね、あんまりこういうの見せたくなかったから地味なフィルターかけておいたんだけど。本当はこういう感じなんだよね:。すごくない?」 確かにその光景は壮絶であった。短冊が遥《はる》か地上から、数百、数千という単位でこちらに向かってくるのである。 「これ、なに?なんなの?」 「だから、願いごと。別の言い方をすると、人間の意志みたいなものかな。こういうのになりたい、こうしたい、これが欲しい、そういう強くて固い意志。志が弱いとね、短冊に願いごと書いても、すぐ忘れちゃうの。まあ、どうでもいいってことなんじゃないかな。 ---------------------[End of Page 217]--------------------- それじゃ意味ないよね。そういう短冊は、空に飛び上がってもすぐに風に流されちゃうんだな。本当にこうあって欲しい、という願いを持った短冊だけが、こうして何ヶ月も時間をかけてパパさんのとこまで登ってくるの」 短冊をよく見ると、そこには「恋人が欲しい」「家族が幸せでありますように」「お金が欲しい」「有名になりたい」「学校に受かりますように」「病気が治りますように」など様々な願いごとが書いてあった。しかし、そのほとんどが天の川に到達することなく、途中で風に吹かれてものすごいスピードで遥《はる》か彼方へ流されていってしまう。 「人間はね、願う生き物だけど、思い続ける生き物でもあるんだよ。佐間太郎《さまたろう》にはわからないかも知れないけどさ。あきらめない生き物なんだ。どうしても、どうしてもって、ずっと思い続けることができるんだ。その中でも、本当に心の底から願ってる人の短冊がここに届くの。それをパパさんは釣り上げて、叶《かな》えてあげるの」 短冊の中のひとつが、パパさんの竿《さお》の針に引《ひ》っかかった。竿がグニャリとしなり、その力が半端ではないことがわかる。 「これね、本気でやんないと引き摺《ず》り込まれるから。佐間太郎はまだ無理。だって、これを救い上げる力はないからね。もし短冊に引き込まれたら、パパさんは人間に飲み込まれちゃうんだ。パパさんたちは、いつだって救う立場になきゃいけないからね。結構ね、大変なんだよ、こう見えて」 ---------------------[End of Page 218]--------------------- 佐間太郎は、こんな真剣な顔をしているパパさんを初めて見た。腕の筋肉が膨《ふく》れ上がり、汗が噴き出る。竿はミシミシと音を立てて、パパさんを人間の欲望の世界へと引き摺りこもうとする。 「オヤジ、手伝う1」 佐間太郎はいても立ってもいられず、彼の体を押さえた。そして、力いっぱい自分の方へ引き込もうとする。しかし、あまりのカにどうすることもできない。 「大丈夫、佐間太郎。パパさんもね、こう見えても神様だから」 そう言うと、パパさんは一気に力を入れて短冊を引き上げた。窓から飛び込んできた短冊は、ピチピチと魚のように床の上で飛び跳ねている。 彼はそれを拾い上げ、書いてある中身を読んだ。 「おっ。いいの引いたよ」 佐間太郎もそれを見せてもらうと、そこには「彼女と結婚したい」と書いてあった。 「よかったね、きっと幸せなカップルになるよ、この二人は」 余りの出来事に驚いていた佐間太郎だが、本来の目的を思い出して、もう一度パパさんを問い詰めた。 「そうじゃなくてさ。それもいいんだけど、その、あの一連のことは、オヤジが仕組んだことなんだろ?」 ---------------------[End of Page 219]--------------------- パパさんはしばらくなにかを考えていたが、竿《さお》を床に置き、豪華な机とセットになっている、これまた豪華なイスに腰を下ろした。 「そういうふうになるんだ、って思ったことある?」 「えっ?」 パパさんの抽象的な言葉は、彼がなにを言おうとしてるのかがわからなかった。 「パパさん神様だけど、世の中の全《すべ》てをコントロールすることはできないの。でも、パパさんの知らないところでも、大抵《たいてい》は偶然上手《うま》くいくようになってるんだ。神の力の及ばないところでも、奇跡は起こるの」 「じゃあ、愛《あい》のことはパパさんは関係ないってこと?」 「うーん。どうかな。キッカケはパパさんだけどね。後は偶然。だから人間の人生って面白いんじゃないの?」 なんだか話をはぐらかされているような気がして、佐間太郎《さまたろう》は膀《ふ》に落ちなかった。 「ところでさ、佐間太郎。きみは自分が神様だってことを人間に知られてしまっただろ?」 不意に真面目《まじめ》な調子でパパさんが言った。その表情に、父親であるという温かみはない。 ただ、目の前に絶大な力を持った神がいる、そう佐間太郎は感じた。 「ああ、ごめん。だってあれは……」 「困るんだよね。そういうのって。ルール違反だから。そういう場合は、あることをする ---------------------[End of Page 220]--------------------- ことになってるんだな」 「なんだよ、あることって」 パパさんは立ち上がり、佐間太郎に歩み寄った。あまりにその顔が真剣だったので、彼は恐怖さえ感じてしまう。 「おい、オヤジ、冗談はやめてくれよ。な?変なことすんなよ?」 「することは二つある」 パパさんは佐間太郎の言葉をまったく無視して、そう言った。 「まずは世界を正常に戻す。お前が神様だとバレる、少し前の世界に」 「そ、それぐらいだったら、まあ、いいけどさ」 「そしてもうひとつ。お前には罰《ばつ》として、苦痛を味わってもらう」 「苦痛?」 パパさんの言葉に嘘《うそ》はないようだった。どこまでもシリアスに彼は続けた。 「それがお前の罰だ。それとこれは、パパさんからの願いというか、願望なのだが。きっと戻った世界で、お前はパパさんの言った言葉の意味を知るだろう。人間が願い続ければ、そういうふうになるんだ、ってことをね」 「あの、よく言ってる意味がわかんない」 「大丈夫だ、身をもって知ることになる。とくに、巨大な苦痛をね」 ---------------------[End of Page 221]--------------------- 待って!と佐間太郎《さ玄たろう》は言おうとした。しかし、既《すで》に声は出なかった。 目の前のパパさんは、じっと彼の瞳《ひとみ》を見つめた。あっという間に佐間太郎は彼の意識の中に取《と》り込まれた。そして意識を失い、彼は苦痛を受けるために時間を遡《さかのぼ》ることになる。 少しだけ、前の世界へと。 ---------------------[End of Page 222]--------------------- 一章再びあの娘《ワヒ》ってば変わったわよねREMIX 「ずいぶん慌《あわ》ててるみたいだけど、どうしたのよ?』 気がつくと、目の前には顔だけのテンコがホログラムのような具合に浮かんでいた。 「はP…えP…な、なんだPどうしたんだP」 佐間太郎《さまたろう》は驚いて周囲を見る。すると、そこは雲の上ではなかった。 いくぶん地上よりは高かったものの、世界中を見下ろすことができるような場所ではない。彼がいるのは、学校の校舎裏にある木の上だったのだ。 隣では進一《しんいら》が目を凝《こ》らして女子更衣室を覗《のぞ》いている。この状況は、彼が数日前に体験したものだった。 「無視しないでよ1どこにいんの、なんか空が見えるわよ?……また変なことしてるんでしょ!一 佐間太郎はテンコのイメージを気合で消し去ると、自分の記憶をたぐり寄せる。 「確か俺《おれ》は今までオヤジんとこにいたはずだよな……。そういえば世界を正常に戻すって言ってたけど、これが正常な世界なのか?」 彼が頭を抱えてブツブツと咳《つぶや》いていると、進一が不意に呼吸を荒くした。 ---------------------[End of Page 223]--------------------- 「ブツブツ言ってんじゃねえよ。ほら、あの娘だよ、あの娘」 彼に言われ、佐間太郎は更衣室へと視線を移す。そんなものを見ている場合ではないのだが、今は考えていても仕方ない。 とりあえず目の前に女の子がいるのであれば、見ておかなくては。 「あの娘が夏休みが終わって急にかわいくなった娘。なんかあったんだろうな。なんでも、前までは相当暗かったらしいからな」 「どれどれ?」 佐間太郎は目を凝《こ》らして進一オススメの女の子を見ようとする。しかし、顔を木の陰から突き出した時に、彼はあることを思い出した。そうだ、この直後に俺は……。 「覗きでもしてんじゃないの?』 佐間太郎の予想通り、耳元でテンコの声がボソッと聞こえた。わかっていたとは言え、そのインパクトは強烈なものである。自分のしていることをズバリと指摘されて、うろたえないわけがない。 「この変態一 追い討ちをかけるように眩く彼女。 「うは……」 彼は数日前の自分をなぞるように、またしてもバランスを大きく崩した。 ---------------------[End of Page 224]--------------------- 木を掴《つか》んでいた手から力が抜け、彼はバランスを大きく崩した。 「おい!佐間太郎《さまたろう》、落ちんじゃねえ1」 と言いつつ、巻き添えを食わないように身を引《ひ》く進一《しんいら》。正常な世界でも、彼の行動は友達思いではないらしい。佐間太郎は進一のズボンをガッシリと掴み、以前と同じように彼を巻き添えにする。 「……まじかよ」 そして二人は同時に地面へと落下する。 落ちていく瞬間、佐間太郎はまたしても更衣室の中の女の子と目が合った。 落下速度が速く、彼女の顔を確認することはできなかった。しかし、彼は地面に猛烈なスピードで近づきながら、こんなことを思うのであった。 「あの娘、どっかで見たような気が……」 そして二人は地面に顔の中心を使って着地する。ヒュルルルルドスンガスンバコーンガラゴロドゴーングシヤッメシメシッ。とね。 もちろんその後、駆けつけたテンコにデコを蹴られたことは言うまでもない。 保健室に進一を連れていき、それから彼が救急車で病院へ送られるのを見送った後、二人は以前と同じように家へと帰った。 ---------------------[End of Page 225]--------------------- やっぱりそうだ。あの日と同じだ。まったく同じことが繰り返されている。 佐間太郎は例の「うむむ」を繰り返しながら歩いた。その後ろを、心配そうにテンコがくっついてくる。 「ね、凡、大丈夫?頭とか、打った?痛くない?いちたすう、いち、はー?」 「うるせえ。考え事してるんだ、黙《だま》ってろ」 「な、なによ。人が心配してるっていうのにさ……」 そうこうしている内に、家にたどり着く。となると、玄関を開けると……。 佐間太郎は思い切って玄関のドアを開いてみた。 「佐間太郎ちゃんおだいじにー!」 目の前には、予想通りママさんと美佐《みさ》、それにメメが白衣を着て待ち構えていた。 「やっぱりか……」 佐間太郎はそう眩《つぶや》くと、顎《あご》に手を当てたまま冷静に靴《くつ》を脱ぎ、自室へと向かった。 まったくのノーリアクションである。テンコは看護婦姿の三人にも驚いたが、こんな状況を冷静に流してしまう彼にもっと驚いた。 「ひーん1佐間太郎ちゃんが相手してくれなかった!せっかく衣装、揃《そろ》えたのに1」 さっさと部屋に帰ってしまった佐間太郎を見て、ママさんが泣き出した。 「ちょっと、泣かないの。やっぱりもうちょっと露出した方がよかったんだってば」 ---------------------[End of Page 226]--------------------- 「でも佐間太郎《さまたろう》ちゃん高校生だし、あんまり過激でもと思って、この辺りで留《とど》めておいたのにー!おっぱい丸出しにすればよかったー!」 ママさんと美佐《みさ》が小さな反省会を始める。メメは、フゥ、とため息をついた。 そんな様子に呆《あき》れながら、テンコは佐間太郎の部屋のある二階へと続く階段を無言で見つめている。 その頃《ころ》、佐間太郎は部屋で考え事をしていた。なるほど、時間が戻るとはこういうことなのか。だが、何のためにそうなったのだろうか。パパさんのそうした意図がわからない.それに、どうして自分だけ記憶が残っているのだろうか。 テンコは世界が戻ったことを覚えていないというのに、なぜ自分だけがこうもハッキリと覚えているのだろう。 彼はパパさんの言葉を思い出した。 「お前はパパさんの言った言葉の意味を知るだろう。人間が願い続ければ、そういうふうになるんだ、ってことをね」 その日はなんとなく部屋から出る気になれず、そのまま自室で一日を過ごした。 翌日、進一《しんいち》のお見舞いに行こうと部屋を出る。すると、美佐がそれを見つけて声をかけてきた。 ---------------------[End of Page 227]--------------------- 「あんた、どこ行くの?」 「別にどこだっていいだろ」 数日前、こんなふうなやりとりをしたことを思い出す。確か、美佐と一緒に病院へと向かったのだ。 「ちょっと待って、あたしも行くから!」 彼女の部屋から声が聞こえる。ここで確か、面倒だから一人で行こうと外へ急いだのだ。 しかし、今度の彼は廊下を引き返し、美佐の部屋の中に顔だけ入れて言った。 「あ、ごめん。テンコと一緒に行くからいいよ」 美佐は下着姿のままで「え?あ、そう。ならいいや」と答える。 とくに深い意味はなかった。たぶん、こうした方がいいと思ったのだ。 「テンコ、お見舞い行くそ。一緒に行くか?」 テンコの部屋のドアに向かって言うと、中でドンガラガッシャン、というコメディ映画の中でしか聞いたことのないような音が聞こえた。 「行く行く1行くから外で待ってて1今、着替えるから!」 佐間太郎はビーチサンダルをはき、家の前で彼女を待つことにする。 しばらくすると、息を切らせてテンコがやってきた。慌《あわ》てて着替えたのだろう、髪の毛が寝癖《ねぐせ》で立っている。普段からそんなような頭だと言ってしまえばそれまでなのだが。 ---------------------[End of Page 228]--------------------- 「お、お待たせ……」 彼女は、少しだけ傭《・’−つむ》いて言った。なぜか頬《ほお》が少し赤い。 「なんで恥ずかしがってんだよ」 「いや、別に。ただ、佐間太郎《きまたろう》があたしのこと誘ってくれるなんて、珍しい……から」 テンコは嬉しそうにはにかんだ。 なるほど、俺はここでこうしていればよかったのか。 一度クリアしたゲームの別ルートを探すみたいに、佐間太郎はテンコの手を握る。 「ひゃ!な、なにPなんなのさP”」 「いや。行くそ、ってこと」 「……う、うん。行くそ」 二人はいつ離れてしまってもおかしくないほど弱い力で手を握り合い、病院へと向かった。気温は高いけれど、涼しい風の吹く理想的な休日だった。 進一《しんいら》の入院している病室に着くと、二人は硬いパイプイスに座った。 「おー!ようこそでーす1めちゃめちゃ退屈してたんだよな、なにせほら、ここにゃーゲームもカワイイ女の子もいないからさ」 違う。 佐間太郎は、今までと違う道を選んでいたことを実感する。 ---------------------[End of Page 229]--------------------- 「なあ進一。ここ、かわいい女の子いないのか?車椅子《くるまいす》の美少女とかさ」 「もう佐間太郎!すぐそういうこと言うんだから1」 テンコは頬《12お》を膨《ふく》らませて窓の方を向いた。 「そんなのいねーよ!ドラマじゃあるまいしさ。んな上手《ロつま》くいかないっての」 「そっか……そうだよな……じゃあ、どうなるんだ?」 「どうって、どうもなんねーよ。あ?なに言ってんだ?大丈夫か?」 「いや、別に……」 その時、病室のドアに人影が見えた。それは、三人と同い年ぐらいの女の子だった。 「あの……。霧島《なセリしま》さんて、どなたですかつ・」 佐間太郎は彼女を見て、そういうことか、と思った。 俺はいま、こっちの世界へと踏み込んできたのか。 「はい!俺です!勉強ヨクテ、スポーツヨクテ、モテヨクテの人であります!」 進一は、彼女の顔を見て一気にテンションを上げた。どうやら、そうとう好みのタイプらしい。女子生徒はふたつにした三つ編みを揺らし、楽しそうに笑った。彼の態度がよほど面白かったのだ。健康そうに日焼けした肌は、ところどころ皮がめくれている。 水玉模様のワンピースがよく似合っていた。 「これ、お花です。なんか、木の上で作業してたんですよね?あたしが驚かしちゃった ---------------------[End of Page 230]--------------------- みたいで、それでケガを……。だからその、お詫びって感じなんですけど」 「そう!作業してたんですよ!ほら、小鳥の巣箱っつの?作ろうとして!下見してたら落ちぢゃって!いあi、大変だったなーもー1でもお詫びなんていらないっすよ!お見舞いに来てくれただけで幸せ1もし君がナースだったら、もっと幸せ!」 進一《しんいち》は彼女に話を合わせてニコニコと笑う。少女は持っていた花を進一に渡して、早々と帰ろうとした。 「あ、いいよ、俺たち帰るから、二人で仲良くやってて」 テンコは「えP来たばっか1」と驚いたが、進一は「ナイス佐間太郎《さまたろう》!」と声に出さず頷《うなず》いた。 「じゃ、お邪魔しましたi。ほら、行くそ、テンコ」 「う、うん……」 病室から出ようとすると、そこにヒモのついた小さな人形が落ちていた。佐間太郎はそれを拾い、彼女に手渡す。 「これ、君のでしょ?落ちてたよ」 「あ1そうです、これ、わたしの大事なお人形なんです。落ちぢゃったのか。あう、きっとヒモが古くなって切れちゃったんだな」 少女は、彼女自身にそっくりの人形を大事そうに受け取《レ一》り、小さくキスをした。 ---------------------[End of Page 231]--------------------- その人形の背中部分には、マジックペンで「ずっとずっと一緒にいてくれる、たいせつなおともだち」と書いてあった。 「あたしが生まれた時に、お母さんが買ってくれたんです。あたしにそっくりでカワイイねって言って。本当に似てるでしょ?まるで姉妹みたい。えへへ」 絡まっていた糸が、ゆっくりと解《ほど》けていくような気持ちになった。やっぱり、そういうことだったのだ。 「そんじゃ、またな(上手《ロつま》くやれよー)」 「おう1気をつけて帰れよ1(佐間太郎、さんきゅー!)」 佐間太郎はテンコの手を引いて病室から出ようとしたが、その前に確認のための質問をする。 「あ、最後に一個だけ。君の名前、聞いてもいいかな」 「え?あ、はい。紹介が遅れまして」 少女は頭を下げると、自分の名前を言った。 「橘愛《たちばなあい》って言います。よろしくお願いします」 彼女の名前を聞いて、やっぱりそうだったのか、と彼は思った。 そして、もう一度パパさんの言葉を頭の中で繰り返す。 人間が願い続ければ、そういうふうになるんだ、ってことにね。 ---------------------[End of Page 232]--------------------- 「ところであの……」 愛《あい》は遠慮がちに佐間太郎《さまたろう》に言った。 「どこかで会いましたっけ?なんだか、見覚えがあるんですけど……」 * 病院からの帰り道、佐間太郎は今までのことを思い返していた。 前の世界で、ずっと彼女を見たことがあると思っていたのは、木から落ちる瞬間、更衣室の中の彼女と目が合ったからだった。それにしても、入院していたはずの彼女と、更衣室で目が合っていたというのも、変な話である。 彼女が病院にいるならば、更衣室で着替えている彼女は存在しない。同じ世界に、同時に二人の少女が生きていたということなのだろうか? しかし、そんなことはどうでもいいのだ。世界には色々な可能性が広がっていて、その中のひとつを佐間太郎が選んだだけだったのである。 そして、これからもまた、様々な未来へと繋《つな》がる毎日を送ることになる。 「あ!ってことはH」 ---------------------[End of Page 233]--------------------- 彼はハッとしてテンコに詰め寄る。 「お前さ、あれのこと覚えてる?あれ」 「なに言ってんの?わかんないって。今日の佐間太郎、ちょっと変だよ?考え事ばっかりだし、それにあたしのこと誘ってくれるし。それはそれで嬉《うれ》しいんだけどさ……」 「カー!覚えてねえよな、キスのこと1」 しまった、と佐間太郎は思った。覚えているわけがない。あれは、未来での出来事なのだ。 「な、なに言ってんの、覚えてるよ、覚えてるに決まってるじゃないの」 しかし、テンコは顔を真っ赤にしてそう反論した。 「あれでしょ?ほっぺに、チュって、してくれた、あれでしょり・もう1言わせないでよ!」 やっぱりだ。やっぱりそっちしか覚えていなかった。それは夏休みの始まる前の話である。彼が言っているのは、佐間太郎の部屋で行われた、あの夜のことだというのに。 「うはー!オヤジ、そういうことか!なんか、すげえ腹立つ1」 佐間太郎は電柱をガシガシ蹴《†》りながら叫《くヨウ》んだ。テンコは彼がどうして怒っているのかわからないが、とりあえずなだめる。 「まあまあ、そんなに怒らないでよ。ね?落ち着いて……」 ---------------------[End of Page 234]--------------------- 三歩進んで二歩下がるというか、四歩ぐらい下がった気がする。せっかく二人の仲が進んだと思ったのに、彼女はそのことをまったく覚えていないのだ。 「はあ……。まあ仕方ないか」 「それより佐間太郎《さまたろう》、宿題、まだ終わってないでしょ?手伝ってあげるから、早く済ませちゃおうよ」 「11」 そうか。それか。それですか。それもですか。 「なに?どちたの?まさか、もう全部終わったなんて嘘《うモ》つくんじゃないよね?」 「……もうなにも言うまい」 佐間太郎の頭の中には、意地悪そうに笑うパパさんの顔が浮かんだ。 お前には罰《ばつ》として、苦痛を味わってもらう。 こういうことだったのか……。 「なに?佐間太郎、どうかした?」 「いや、なんでもない。んじゃ、一緒に宿題すっか」 「うんっ1」 テンコは大きく笑顔を作って、佐間太郎の手をギュッと握った。 まあ、こっちもこっちで悪くないかなー。 ---------------------[End of Page 235]--------------------- そう彼は思うのだった。 「ところでさ、キスで赤ちゃんできないの知ってた?」 「え?知ってるよ。そんなわけないじゃない。バッカじゃないの?」 ちっ。 ---------------------[End of Page 236]--------------------- あとがき 皆様のご声援に支えられ、無事に神様家族も第二巻が出ることとなりました。 ますますパワーアップしたママさん、美佐《みさ》、メメが大暴れ!気になるテンコと佐間太郎《みささ塞たますますパワーアップしたママさん、美佐、メメが大暴れ!気になるテンコと佐間士ろうなぞ》の恋の行方は12”そして、二人の前に突如として現れた発育少女とは17…そんな謎《なぞ》とスクール水着に溢《あふ》れた小説でございます。 と、まあ続編にありがちな文章を書いたところで、そろそろ本題にいってみましょう。 小説を買うとですね、アンケートハガキがついているじゃありませんか。あれってみなさん、出しますか?僕はほとんど出さないのです。だって面倒だし。でもちょっと待って!本を書く側になって思ったのですが、あれほど励みになるものはないのですよ。 皆様のご意見が直接聞ける数少ない機会なので、大変参考になります。 僕がまだ作家になる前は、たまーにアンケートハガキ出したと思えば「テレカください」 とか「サインください」とか「アニメ化する際には声優さんの○○を使ってください」などと、ろくなこと書いてなかったのですが、最近の読者様は違う1ちゃんとご意見を書いてくださる!なんて素敵なのでしょう。なんて素晴らしいのでしょう。 ---------------------[End of Page 237]--------------------- これからも、ぜひ小説に挟んであるアンケートにはお答えくださいませ。もちろんアンケートだけじゃなくていいのよ1ほら、巻末に「ファンレターはコチラ」とか書いてあんじゃん!な1それ、な1もうこれ以上は言わないけどさ、察してよ!僕がなにを求めてるのか察してよ1心、通じ合わせようよ!読者と作家で二人三脚で作ってこうよ、神様家族1な1という感じなのです。 皆様の熱い要望があれば、神様家族の続編がまた出るかも知れません1 そしてアニメ化ね1そんで映画化だ!それとなんだ?あとはわかりません。 全《すぺ》ては皆様次第でございます。よろしくお願い致します。 というわけで、今回も編集のKさんとMさんには、ご迷惑をおかけしました。どうもでした。それはもう苦虫を噛《か》み潰《つぶ》してさらに飲み込んで「あれ?これって健康にいいかも?」と思わせるほど辛《つら》いあれだったと思います。テへ1そしてイラストのスズヒトさん、日本酒おごらせてくださいまし。もう皆さん愛してます。キャ、告白しちゃった1そんな感じで、顔を真っ赤にしながら内股《うらまた》で走り去るのでありました。ありがとうございました。 桑島由一 ---------------------[End of Page 238]--------------------- 壷撫』 ---------------------[End of Page 239]--------------------- 盟          団 ---------------------[End of Page 240]---------------------